第7話「鯉は新鋭へのぼる ②」


しぎくんはもうちょっと生まれ育った日本について関心を持とうね」


 こいのぼりそうか今日はこどもの日か――と内心の言葉がつい口に出てしまって、それを聞いた白波瀬しらはせの言葉がそれだ。

 呆れを通り越してあわれみも抱けない、諦めの境地に至ったそれこそ神か仏かその類の慈悲深い声音で、白波瀬は言った。

 もはや返す言葉が一音たりとも見当たらない。

 とりあえず、柊摩しゅうまはそのまま黙って白波瀬の後ろを追行することにした。


 流石、自分の母校ということだけはあって、白波瀬は校門から続くメインストリートを途中からショートカットしてグイグイ歩き進む。

 一重咲ひとえざき中学の敷地は八重咲やえざき高校より一回り小さく、廊下の幅も通り際に覗いた各教室の広さも、天井高も、思っているより小さく低い印象を受けた。柊摩自身、自分の中学校がどうだったかもう思い出せないが、おそらくこことたいして変わらないと思う。


 そんな感じで二年ぶりの中学校を物珍しく見回していると、いつの間にか事務室に辿り着いていた。おそらく一番の近道で来たのだろう。

 白波瀬は軽くノックした後、扉を開けた。ささっと入室した白波瀬に続いて柊摩も事務室に足を踏み入れる。

 物が多いせいか事務室もやはり小さく感じる。遮蔽物しゃへいぶつが多く部屋の奥まで見通せない。


「おはようございます。八重咲高校の白波瀬と申します。本日の〝こいのぼり祭り〟のサポートとして参りました」


 白波瀬の言葉に入り口付近でパソコンを打っていた数人が顔を上げ、こちらを一瞥いちべつした。その内の一人、スクエアの眼鏡をかけた壮年そうねん女性が席を立つとこちらにやってくる。その最中、白波瀬は小さな声であっ、と呟いた。


詩織しおりちゃん久しぶりね」

眞壁まかべさん! お久しぶりです!」


 なんと。白波瀬は事務員のお名前を憶えている。


「卒業以来かしら」

「ですね。あっでも私、実は去年も来てるんです」

「そうだったの。私ちょうど去年はまる一年産休と育休とっていたの」

「男の子ですよね?」

「そうそう、とっても可愛いの」

「えっ超見たい!」


 白波瀬はとびっきりの笑顔でそう言った。

 なるほど、ここに来るまでに白波瀬が中学校に対して寂しくもあり今日おもむくことは楽しみであると、そう告げた思いがなんとなくだがわかった。


「アルバムの中に……」


 眞壁さんはウキウキワクワクの白波瀬に応えようと、ポケットの中からスマートフォンを取り出した。

 ところでこういう時、要は置いてけぼりを食らっている時、自分が何をするのが一番正しいのか未だ正解を導き出せていない柊摩は、とりあえず事務室内を見回すことにした。

 そうして最初に目に入ったのは。


「あっといけない、」


 柔和とも陰険いんけんとも異なる、無機質な周囲の視線だった。

 もちろんその視線を背に受けている眞壁さんが気付くことはないはずなのだが、眞壁さんはロック画面を解除したところで画面をオフにする。


「詩織ちゃんはお仕事で来ているのよね。ごめんごめんちょっと待ってて。資料取ってくるから」

「あっ、はい」


 僅かばかりではあるが失意を帯びた声音が白波瀬の口から零れ出た。

 そんな白波瀬に一声かけようか、かけまいか言い淀んでいる間に眞壁さんが戻ってくる。


「お待たせ。一応必要な資料は一式揃えてあるから確認してくれる?」


 言って眞壁さんは受付カウンターの上にA4の茶封筒を二つと白封筒を一つ、書類と〝STAFF〟の字が書かれた名札が入ったクリアファイルを二部、トランシーバーを一つ、持ち運び用の紙袋を置いた。


「白波瀬さんと、」


 言葉に詰まったかと思いきや、柊摩の方を見て首を傾げる眞壁さん。


「鴫です」


 柊摩が名乗ると、眞壁さんは首肯しゅこうして続けた。


「ありがとう。鴫さんと白波瀬さんには開始と終了時の受付業務とメインイベントが始まったら裏方のサポートをやってもらうことになっているわ。クリアファイルの中にはタイムテーブルと全体の諸注意について書かれた紙があるはず」


 白波瀬は二つあるクリアファイルの一つを手に取るともう一つを柊摩に渡す。柊摩は受け取ったクリアファイルの中身を出して、二枚のA4用紙があることを確認する。一枚は片面印刷でタイムテーブルが記載されていて、もう一枚は両面に諸注意が記載されていた。


「内容については後で確認してもらえる?」

「了解しました」


 白波瀬の言葉に続いて柊摩も小さく頷く。


「それと、そっちの茶封筒の中には来賓らいひんリストと来賓用の名札、それ以外の方の参加者名簿が入っているわ。白波瀬さんは去年やっているとのことだけど、やり方は覚えてる?」

「はい、覚えています」

「そう。これといった変更点はないらしいわ。何かわからないことがあったら、同封してある手順書、黄色い紙を見てくれたらいいし、それでもわからなかったらトランシーバーを使って」

「わかりました」


 白波瀬の返事に眞壁さんは軽く微笑んで、淡々たんたんとした説明を続けた。


「裏方のサポートについては、担当者、角田かくだ先生は覚えている?」

「覚えています。中学一、二年の英語を教えてもらった先生です」

「なら安心ね。そっちの業務内容はその時に角田先生に聞いてちょうだい」

「わかりました」

「開場時間は十時半からだから、それまでには受付の準備を終えておくように。質問はある?」

「いえ、大丈夫です」


 眞壁さんの目線が柊摩に向く。


「俺もありません」


 答えると、眞壁さんはここ一番大きく頷いた。


「なら、今日はよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 白波瀬が続いて、柊摩は軽く一礼する。

 最後に眞壁さんはぎりぎり柊摩が聞える程度の小さな声で告げた。


「詩織ちゃん、また後でね」




 †††




 事務室を出ると、こいのぼり祭りの受付場所である校門前に戻ってきた柊摩と白波瀬。いつの間にか校門には受付用の机と椅子、パラソルが用意されていた。

 とりあえずそれらの配置を少し工夫したり、本日使う予定のない食堂の立看板を受付の目印に用いたりと、白波瀬の指示の下で柊摩はセットアップを終わらせた。

 今柊摩は付近の掃除を、白波瀬は茶封筒と白封筒の中の書類を整理している。


手際てぎわがいいな」


 黙々と書類整理を進める白波瀬に柊摩は言った。白波瀬は視線を上げると小さく頷く。

 改めて柊摩が心の中で感嘆かんたんしていると、いつまでも視線を向けてくる柊摩を不思議に思ったのか、首を傾げた。


「いや、本当に覚えているんだなって」


 内心で思ったことは口にせず、柊摩は適当なことを言う。


「そりゃあ覚えてるよ」

「どんだけ記憶力いいんだよ」

「別に言うほど良くないよ。単に記憶に残りやすい出来事だったからだけだし」


 そういうものだろうか。正直、柊摩は去年自分がどんな学生生活をしていたのか、判然と覚えている出来事などほとんど無い。


「去年も来たって言っていたな」

「そうよ。緋本ひもと先輩は熱で来れなかったから光谷みつや先輩と、その当時部長だった栗生くりゅう先輩の三人で」


 今登場した三人の先輩の内二人が、今のこの部の先輩になるのだろう。とりあえず名前だけは覚えておく。


「実際一年ぶりに学校の中に入ってみてこんな感じだったかなって思うところもあるけど、大半は記憶と一致してるもんだね。ただ、」

「……ただ?」

「いや、なんでもない」


 首を大きく横に振って、白波瀬は再び書類整理に手を戻した。


 ただ――、白波瀬が言い止したその言葉の続きが柊摩にはおおよそではあるがわかる気がした。

 詩織ちゃんと呼ばれていたのが、途中から白波瀬さんと呼ばれていた、眞壁さんとの会話を思い出したのだろう。生徒と事務員から、仕事相手とまでは言わないが生徒以外から事務員という立場に変わっただけで、どこか他人行儀になった接し方。

 柊摩には自分のことを名前呼びするような先生がいなかったので、白波瀬の気持ちに共感するのは難しいが、やはりさびしさを覚えるのだと思う。


「まぁ大人になったってことじゃないか?」


 こんな言葉白波瀬には不要だなと、口に出してから思ったが、もう遅い。


「……うん」


 と思ったら、白波瀬は噛みしめるように呟いた。

 が、次の瞬間には愁眉しゅうびを寄せて。


「えっ、なに? 本当にわかってて言ってるの?」

「何が?」

「えっ、いや、わかってないの? なに、どっち?」

「いや、だから何が?」

「もういいよ」


 白波瀬は呆れるようにため息をついた。

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