第6話「鯉は新鋭へのぼる ①」


 遂にその日がやってきた。


 別段休日だからと言って昼まで寝ているなんてことはしない質の柊摩は早起き自体いつも通りだが、土曜日に制服の袖を通すことは生まれて初めてで違和感しかない。

 着替え終わると平日通り朝食を済ませてから、入れる教材が何もない学生鞄に財布と筆箱だけを入れて、柊摩しゅうまは家を出た。

 家から学校までは近い方で、自宅の最寄り駅から三つ先の駅で降りれば徒歩十分足らずで八重咲高校に到着する。所要時間は三十分くらいだ。


 土曜日の学校。

 よく見ると今学校にいる生徒のほとんどがカラフルなユニフォームか体操着を身に付けていて、制服を着ている生徒は極極少ない。

 普段通り、本館下駄箱に直行して上履きに履き替えたら、二階の定教室に向かうのではなく、遥か遠い四階最奥の視聴覚室へと足を進める。

 時計を見れば八時五十分。

 ゆっくり歩いても九時には間に合うだろう。

 とは言え、緩徐かんじょに歩くと反比例するように不安から連なる焦慮しょうりょられて自然と足早になる。五分と経たずに目的地へと辿り着いて、柊摩は流れるようにその扉を開けた。


「おはよう」


 第一声は白波瀬しらはせだった。本来ならそれに返答するべきなのだろうが、不覚にも返事が遅れた柊摩。それもそのはず、


しぎくん制服で来たの?」


 そう言う白波瀬は制服など着ておらず、もちろん部活のユニフォームを着ている訳でもなく、ワンピースというどう見ても私服の姿でそこにいた。


「別に制服でもいいけど、普段着でもよかったんだよ」

「……そう言うのは事前に伝えておいてくれると嬉しいんだが。おはようございます」

「うん」


 頷くと、白波瀬は一歩前に出てそれからその場をくるりと一回転した。同時に薄地のすそがふわりと浮いて軽やかにはためく。


「…………似合ってる」

「おお、よく言えまたね」


 完全に赤子扱いだ。腹が立つ。その青白磁せいはくじ色のシャツワンピースが可憐な彼女にとっても似合っているのが、余計、腹が立つ。ウエストのしぼりが彼女の体のラインを僅かに強調させていて目線の行き場がないのが、最も、腹が立つ。

 柊摩は所属部員数のわりには大きすぎる部室を見回した。


「えっと、他の部員は?」

「今日はお勉強day。明日第一回統一模試があるからね」


 統一模試を受けるということは、残り二人の部員は三年生なのだろう。

 新学期が始まって間もない五月にもう大学の入試模試が行われるなんて、受験生は勉強一色、遊んでいる暇などないのだろう。可哀そうにと、来年自分もそうなることは棚に上げて柊摩は心中でお悔やみ申し上げた。


「で、今日は何するんだ。午後から書店に行こうと思ってるんだが」


 言外に午前中に終わってほしいと伝えた柊摩だが、対する白波瀬の返答は。


「駅前の柴山書店よね。あそこ夜九時までやってるし、それまでには終わるから大丈夫」

「えっ、今日は何時解散なんだ?」

「それ答えてあげてもいいけど、今日最後の質問をここでしてもいいの?」

「今日最初の質問はまだしてないんだが」


 呆然自失で柊摩が呟くと、白波瀬は喜色満面で、椅子に掛けていた肩掛けポーチを手に取った。


「それじゃあ行こうか」

「どこに?」

「それは質問?」


 もはや白波瀬の言うがまま、ついていくしかない。

 隠しもせず嘆息付いた柊摩に、白波瀬はうんと頷いて告げた。


「それじゃあ三年間遊び学んだ母校へレッツゴー!」




 †††




「鴫くんって一重中ひとえちゅうだったっけ?」


 くだんの宣告を問答無用で受けると、柊摩は白波瀬に連れられて再び京急けいきょう線に乗ること一駅。条目じょうもく駅を下車して歩くこと十分、おおよその目的地が見えてきたところで白波瀬が聞いてきた。その声音は弾んでいる。


「いや俺は一重咲ひとえざき中学じゃない。市内の学校だ」

「そーなんだ。じゃあ全然懐かしくとも何ともないね」


 八重咲やえざき高校と同じ、学校法人菊咲きくさき学園が運営する私立一重咲中学校。人呼んで一重中。八重咲高校の姉妹校にあたる学校だ。どうやら白波瀬は一重咲中学出身らしい。

 おそらく本日の活動場所はここで間違いないだろう。中学校で何をやるのかはさっぱりわからないが。

 半歩前を軽快に歩く白波瀬が振り返って言う。


「中学校ってさ、卒業したらそれっきりで、行こうと思えば行けるのに足を踏み入れようとはならないじゃん」

「まぁそうだな」

「今日みたいに何かしらのきっかけがないと入れないって言うのが、ちょっと寂しくもあるんだけど、だからこそすごい楽しみなんだよね。久々に恩師に会えるとかさ」


 確かに物理的な距離は近付いても遠ざかってもいないのに、心理的な距離はそれこそ隔絶かくぜつができているほど遠ざかったように感じる。例えば今抱えている問題を、高校ではなく中学校に持ち込もうとは思わない。それこそ中学校で解決しようだなんて脳裏のうりよぎることすらない。喪失感なんてないのに寂寥感せきりょうかんだけ感じさせられる不思議な感覚だ。


 高校に進学する時に引っ越しをした柊摩は、物理的な距離も離れた分、白波瀬ほど寂しさを感じる機会は少なかった。故に言われて初めてその感傷に浸る。


「鴫くんはそういった人ともう既に巡り合えてる?」

「いや、恩師って呼べる人は今のところいないな」


 おそらく、今後そういう人と巡り合うかといえばその可能性は低いだろう。

 柊摩は消極的なたちだ。その上、向こうが積極的に来ても自分の心を開くことは少ないと思う。そうなれば必然と。


「まぁ恩師なんて呼べる人は一生に一人か多くても二人くらいしか巡り合えないだろうし、これに関しては運もあるんだろうけど、鴫くんも良い先生に出会えたらいいね」

「そうだな」

「着いたよ」


 言って白波瀬は足を止めた。柊摩が視線を上げると〝学校法人菊咲学園 私立一重咲中学校〟という文字が掘られた銘板めいばんが取り付けられた、レンガ造りの大きな校門が待ち構えていた。

 その表札の反対側には、重厚な銘板とは対象的な白色の立看板が置かれている――。


「第八回こいのぼり祭り会場」


 柊摩が立看板に張り付けられていた大きな文字を読み上げると、白波瀬はくるりと回って視線を向けると無邪気に顔を輝かせた。


「今日の活動内容は見ての通り。第八回こいのぼり祭りのお手伝いで~す!」

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