第1話「九割も五分もないけれど、それでも青く染まってます。 ①」

 ――憂鬱だ。億劫だ。加えて不愉快でもある。


 五月一日火曜日午後四時三十分。

 八重やえざき高校二年B組しぎ柊摩しゅうまはこれまでの高校生活の中、過去最悪の気持ちで廊下を歩いていた。


 人気ひとけがない閑散かんさんとした廊下。開いた窓からは青嵐せいらんに揺れた葉擦れの音や今はまだ調子外れな管楽器の音色、太い運動部の掛け声が僅かに聞こえてくる。


 学校における授業というのは既に全学年で終わっており、今は放課後、部活動の時間だ。

 故に各クラスが保持する主教室が集められた、言い換えれば部室として利用されている教室が少ない本館、加えてその最上階に位置する四階廊下の静寂は尚のこと。

 その重い足取りの足音は存外響く。

 もっとも当の本人柊摩は自分の足音はもちろん、草木の騒めきも広い学校敷地のそこここで溢れる活気も耳に入らない。


 そんなことより――と、別のことで頭の使用率がひっ迫しているのだ。

 これで何度目か。意地でも足は止めずに、柊摩は胸に膨らむ憎々しい気持ちを全て吐き出すつもりで長い嘆息をついた。


 正直、ばっくれたい。今すぐにでも帰りたい。

 だが、今日のコレは絶対無理である。


 事の発端は本日最後のSHRショートホームルームでの呼び出しだ。

 相手は担任の安達先生から。


「鴫、今日の放課後三十分くらい時間を貰えるか?」

「まぁ大丈夫ですけど」

「そうか、それは良かった。では、これが終わったらへ行ってくれ」

「…………――――」


 今になって柊摩は思う。あの時呼び出しの要件を聞いておくべきだったと。


 新学年が始まってからもうすぐ一か月。言い換えればまだ一か月しか経っていない。

 そんな中、クラスでさして目立っていない柊摩のことを改まって個別に呼び出すなど、相応の理由があるに違いない。

 けれどその理由とやらに関して、柊摩は心当たりがないのだ。

 説教を食らうようなことは素より褒められるようなこともしていない。迷子になっていた子犬を探したとか、そういう校外でのことや副次的なこともからっきしだ。


 故に理由不明の呼び出しに事前準備なしでおもむくのは恐ろしくて仕方がない。

 いや――実のところはひとつだけ可能性を考えられなくもないことがある。


 それは三日休日を挟んだ先週金曜日のこと。

 下校時、下駄箱で柊摩が自分の靴箱を開けると中に三つ折りにされた一枚のルーズリーフが入っていた。そこにはクラスメイトの白波瀬しらはせが柊摩に伝えたいことがあり放課後へ来て欲しいと書かれていた。

 が、その日は帰ってやることがあった上、緊急性はなさそうだし、なにより四階まで行くこととその後のイベントが面倒だったのでそのまま帰宅した、という出来事のことだ。


 この出来事が高校二年になってからの約一か月間で、唯一柊摩の身に起こった特出すべく出来事である。


 しかし、これに関して担任の安達先生が介入してくることがあるだろうか?


 白波瀬からの呼び出しの理由はある程度察することができる。柊摩はそれを承知の上で相手が相手と言うか、分不相応と言うか、自然消滅と言うか、そう言った理由もあって金曜日ばっくれたのだ。


 別段浮かれているつもりはないはずだが、この出来事はいわゆる色恋沙汰というやつだ。


 大抵この手の話題に関して教師は不干渉という立場を取るだろう。

 だからこそ本来なら安達先生による呼び出しと白波瀬による呼び出しとは関係ないと、反論の余地なく断じることができるはずなのだ。


 本来なら。


 他に考えられる可能性がないこと。

 休日を挟んだ翌日というタイミング。

 視聴覚室という呼び出し場所の一致。


 偶然だと、反論の余儀なく断じることはできない不確定要素を前に。


 もちろん安達先生からの呼び出しが白波瀬の一件とは何ら関りがないことだってありえるだろう。

 けれど、少なくとも面倒なことが起こると、脳内の危険信号が鳴り止まない。

 気が進まん。足が進まない。そして遂に足が止まる。本館四階最奥。目線をあげれば、視聴覚室と記されたプレート。


 この呼び出しに纏わる全ての問題は、この扉を開けた先に答えがあるのだろう。

 ここ一番の大きな溜め息を吐いて、柊摩は緩慢に、扉に手を掛けた。




 †††




 建て付けの悪い扉はぎぃィィと音を立ててきしむ。

 この期に及んで弱腰になっていた気持ちを奮い立たせるよう、柊摩は命一杯力を加えて視聴覚室の扉を開けた。


 初めて足を踏み入れた視聴覚室は定教室より一回り大きく、部屋の大部分は長机を口の形に配置した会議室によくあるレイアウトで、前側の残りのスペースに長机を二つ並べた島があった。室内の窓は部屋の前半分だけ開けられていて、照明もまた島机の付近のみ付いている。

 爽然たる若々しい薫風くんぷうが開いた窓から吹き込むと、快活な少女を思わせる短めの茶髪が靡き燦然さんぜんと輝いた。


「遅かったね。何してたの? 今週鴫くんは掃除当番じゃないはずだと思うけど?」


 斜陽を背に、島机の上座で物書きをしていた彼女はその手を止めペンを机上に置くと視線を柊摩に向ける。


「……掃除当番以外にも遅れる理由はあるんじゃないか?」

「ああ言えばこう言う。それにむっちゃてきとー。鴫くんってそういう子なんだね」


 どうやら視聴覚室は土足厳禁らしい。そう言えば廊下に靴箱があったなと思い出しつつ、ライトグレーのカーペットが敷き詰められた一段下、土間に自分の上履きも並べた。


「俺、安達先生に呼ばれて来たんだが」

「用件なら私も知ってるよ。だって私が頼んだんだもん」

「そっか、んじゃあ手短に話してもらえると助かる。三十分しか時間を取れないんだ」

「よくもぬけぬけと」


 言って含んだ笑みはあきらかな嘲笑だったが、そこに小気味好さが帯びている。それから、一拍おいて続けた。


「なら、まずは金曜日ここに来なかったことと今の今まで謝罪の言葉を告げに来なかったその言い訳理由、教えてくれる?」


 言って彼女――白波瀬しらはせ詩織しおりは、先日柊摩がもらったルーズリーフと全く同じ文章が書かれたルーズリーフを掲げた。

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