第2話 メーティス
1月2日
アサミはワカバの運転で君津に出かけた。
「アンタってよく見ると
ハンドルを握りながらワカバが言った。
木更津港君津地区に位置し、東京湾沿いは日本製鉄(旧新日鐵住金)を中心とする重工業地域であり、市街地も君津駅を中心とした沿岸部に集中している。内陸部の久留里地区はJR久留里線が通り、江戸時代に久留里藩の城下町として栄え、歴史的町並みが残されている。
清澄山・三石山系の地下水は平成の名水百選「生きた水・久留里」に選定され、湧水を活用したカラー(湿地性植物)の生産量は日本一である。
1960年代後半、八幡製鐵工場とともに九州出身者約2万人が大量移住したという「民族大移動」の歴史を持ち、各地に九州文化が残る。
千葉県南部に位置し、県庁所在地である千葉市から約35キロメートルの距離である。東京都の都心から40 - 50キロメートル圏内である。都市雇用圏における東京都市圏に含まれる。なお、東京都(特に東京国際空港)や神奈川県からは東京湾アクアライン若しくは東京湾フェリーを利用した場合が移動距離の短縮となる。
北西部は東京湾に面しており、京葉工業地帯の一画を形成している。内陸部は房総丘陵の山岳が連なる。市域は内陸部に向かって広くなっているのが特徴で、千葉県内では市原市に次いで第2位の面積規模である。
昼過ぎに
久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城(古久留里城)で、以降は信長の子孫である真里谷氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、里見氏によって再構築され(新久留里城)、佐貫城と共に対北条氏の最前線を担った。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁として再整備され、酒井氏の加増地となった17世紀末から18世紀半ばを除いて、近世城郭として明治維新まで維持された。
久留里城は現在本丸のある近世城郭部に加え、安住原地区、怒田遺跡および山麓小櫃川河畔の近世居館部の4つの郭群からなる。この内、江戸時代には近世城郭部と近世居館部のみが城域として維持されたが、安住原地区については真里谷氏時代の遺構であり、里見氏時代には既に放棄されていたと考えられている。
山麓の近世居館部は一部の土塁を除き開発により消滅したが、車道で一部が削られたものの山上の遺構は比較的よく残り、天守台等の近世遺構に加え、堀切や削り残し土塁等の中世里見氏時代の遺構も見られる。また、山上は湧水が豊富で、男井戸・女井戸、お玉が池を始めとする、複数の水源が現在でも水を湛えている。
平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない。
上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。 戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた(里見成義がここを開城させたとも、里見義堯が武田一族であった前城主武田真勝に城を譲らせたともいう)。
天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた(ただし、年代に異説あり)。永禄7年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は私戦を禁じた惣無事令違反により、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総の所領を没収された。この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。
その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となった。慶長6年(1601年)松平(大須賀)忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、遠江国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。土屋氏は延宝7年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。寛保2年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は明治維新まで居城し、明治5年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。
昭和30年(1955年)に城郭跡地の国有地を借り受けて城山公園に整備を行った。昭和54年(1979年)には模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造された。江戸末期に実際に建っていたものは、現存する当時の文献や、礎石の配列状況からして2層2階であったと推定されているが、再建された天守は浜松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なる。模擬天守内は展示物は全国に現存する天守閣のパネル展示くらいで、展望台として利用されている。
赤い玉がそんなに簡単に見つかるわけがない。
展望台から海を眺めながらアサミは思った。
死の世界から舞い戻ったタカギは赤い玉のトリセツは知っていたが、在り処までは知らなかったようだ。
アイドルになったマヨに電話したが知らないとのことだった。
「使えねーな」
木更津駅近くにあるビジネスホテルに泊まった。木更津駅よりバスで25分のところにある白壁の湯に行った。ワカバもアサミも酒を飲んでいた。
君津の最奥部にあるレジャー施設「ロマンの森共和国」内に、露天風呂「白壁の湯」が存在する。
日帰り入浴専門であるが、ロマンの森共和国内にあるホテルシルクヴィラ、コテージに宿泊すると無料で利用できる。
温泉内を散策したが玉はなかった。
1月3日の夜、福山雅治主演の大河ドラマ『龍馬伝』がスタートした。
次の日の昼過ぎに千葉県立清和県民の森に出かけた。
房総半島の尾根を形成する高宕山、鹿野山、大塚山などの山域に広がる森で、清和県民の森として水源の森百選に指定されている。
主に下流域の灌漑用水と工業用水に利用している。常緑広葉樹と炭焼きの名残である落葉広葉樹並びに植林の針葉樹林帯が混在した自然環境が四季折々に美林の風景造り出し多くの動植物の宝庫となっている。
森の中を探したが見つからない。
家に戻って再び『孫子』を読んだ。
非好戦的 - 戦争を簡単に起こすことや、長期戦による国力消耗を戒める。この点について 老子思想との類縁性を指摘する研究もある。「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(謀攻篇)
現実主義 - 緻密な観察眼に基づき、戦争の様々な様相を区別し、それに対応した記述を行う。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」(謀攻篇)
主導権の重視 - 「善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず」(虚実篇)
戦争観
孫子は戦争を極めて深刻なものであると捉えていた。それは「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と説くように、戦争という一事象の中だけで考察するのではなく、あくまで国家運営と戦争との関係を俯瞰する政略・戦略を重視する姿勢から導き出されたものである。それは「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」、「百戦百勝は善の善なるものに非ず」といった言葉からもうかがえる。
また「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」(戦争過程で無理をして素早く決着させた事例はある。決着に時間をかけてしまったが過程は上手だったという事例は無い。)ということばも、戦争長期化によって国家に与える経済的負担を憂慮するものである。この費用対効果的な発想も、国家と戦争の関係から発せられたものであると言えるだろう。孫子は、敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだとも言っている。
すなわち『孫子』が単なる兵法解説書の地位を脱し、今日まで普遍的な価値を有し続けているのは、目先の戦闘に勝利することに終始せず、こうした国家との関係から戦争を論ずる書の性格によるといえる。
不意にガモウへの殺意が湧いた。アサミをパワハラしていた
あの女すらいなけりゃ、こんなツラい思いをせずに済んだ。
『アンタには介護士としての才能がないのよ』
あ〜殺したい!
1月5日
アサミは午前10時、久喜市ふるさとハローワークにやって来た。持ち物は雇用保険被保険者離職票(1と2)、個人番号確認書類(いずれか1種類)、身元確認書類((1)のうちいずれか1種類もしくは(2)のうち異なる2種類(コピー不可)) 、写真(最近の写真、正面上半身、縦3.0cm×横2.5cm)2枚、印鑑。
加藤茶に似たザイゼンという担当者に妖怪退治の詳細を尋ねた。
「地域によって違う。例えば埼玉なら1匹につき、5万だ」
「一覧表とかありますか?」
ザイゼンは書棚を調べている。
「あっ、あった。今、コピーしますね」
ザイゼンから渡されたプリントをアサミは眺めた。
秩父市には
子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という。比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる。
民俗学者・柳田國男の著書においては、夜道怪の正体は妖怪などではなく人間であり、中世に諸国を修行して旅していた法師・高野聖のこととされている。武州小川(現・埼玉県比企郡小川町)では、夜道怪は見た者はいないが、頭髪も手入れされておらず、垢で汚れたみすぼらしい身なりの人が、大きな荷物を背負って歩く姿を「まるで夜道怪のようだ」と言うことから、夜道怪とは大方そのような風態と推測されている。実際に高野聖は行商人を兼ねていたため、
2月1日
アサミはパソコンスクール『メーティス』に通うことになった。教室は久喜駅西口にある。
久喜駅西口は提灯祭り通りを中心に古くからの商店が多くあったが、久喜幸手新道周辺にイトーヨーカドー久喜店ほか、埼玉県道3号さいたま栗橋線周辺にアリオ鷲宮など商業施設が多くなり、さらに後継者不足により年々数を減らしていった。それに対し、居酒屋やコンビニエンスストアなどのチェーン店は数を増している。西口駅前広場付近はクッキープラザ(久喜駅桧家ビル)やマンションが立地する。毎年7月12日と7月18日には提灯祭りが開催され、市内外から観客が多く訪れる。
路線バスは、以前は提灯祭り通りを走行していたが、2012年時点では新駅前通りを走行する。駅周辺に古くからの病院、医院が立地し、市内や周辺市町の医療を支えてきたが、2011年4月に駅より西に1.5 km離れた上早見地内に総合病院が開院した。公共施設は駅から南へ500 m進んだ六間通り沿いに埼玉県立久喜高等学校が、1 km離れた下早見地内に久喜市役所、埼玉県立久喜図書館が立地している。
メーティスは、ギリシア神話に登場する女神である。長母音を省略してメティスとも表記される。名は「知恵」の意味。「叡智」や「思慮」及び「助言」を意味する知性の神である。 英語ではミーティス。
木星の第16衛星メティスや小惑星帯の小惑星メティスのエポニムである。
学長のダイモンはどことなく俳優の真田広之に似ている。
ダイモンがメーティスの物語について教えてくれた。
ティーターン神族の末弟クロノスは母ガイアの命を受けて父であるウーラノスを倒し、神々の王となった。しかし、その際にウーラノスによって自身も同様に子に倒されるという予言を受け、子が生まれるたびにそれを飲み込んだ。クロノスの妻レアーはそれを悲しみ、ガイアに相談して闇夜の外で末子ゼウスを産み、石をゼウスと偽って持ち帰り、それをクロノスに飲み込ませたために助かった。
ゼウスはクレータ島で育てられ、成人すると母レアーと知恵の女神メーティスと共に、食べられた兄姉たちの仇を打つことにした。ゼウスはメーティスに命じ、メーティスは自分の作った嘔吐薬をネクタール(神酒)に混ぜてクロノスに飲ますことに成功した。クロノスはまずゼウスと偽られて飲み込んだ石を吐き出し、続いてポセイドーン、ハーデース、ヘーラー、デーメーテール、ヘスティアーと、飲み込んだ際とは逆の順で彼らを吐き出した。ただし、一説によればメーティスは関与しておらず、ゼウス自身がクロノスの背中をたたき吐き出させたという。
そして、ゼウスは吐き出された兄姉たちと力を合わせ、クロノスを始めとするティーターンとの戦いティーターノマキアーに勝利した。この戦いにはティーターン神族の長兄であるメーティスの父オーケアノスは参加しなかったという。
その後、神々の王となったゼウスはメーティスを妻として迎え入れた。一説によればメーティスはゼウスの妻ではなく、ゼウスから逃げ回った末に子を身ごもったとされる。このことを知ったガイアとウーラノスは、メーティスの子はゼウスよりも聡明で剛毅であり、もし男児であったらゼウスの地位を脅かすであろうと予言した。そのため、ゼウスは祖父ウーラノスや父クロノスのように子に権力を奪われることを恐れ、用心のために父クロノスのようにメーティスを飲み込んだ。このことでメーティスとゼウスは同化し、ゼウスは知恵の神としても信仰されるようになった。
しかし時はすでに遅く、メーティスはすでに懐妊しており、胎児はゼウスの頭部へ移って生きていた。やがて子が生まれる月になると、ゼウスは痛みに耐えかね、リビアのトリートーニス湖のほとりでプロメーテウスやヘーパイストス、ヘルメースなどに相談し、ヘーパイストスに斧で頭を叩き割るように命じた。すると、中からすでに成人し、甲冑で完全に武装した女神が飛び出した。これがアテーナーであった。
この後、メーティスはゼウスの体内で善悪を予言するようになったという。
2月2日 - 国土交通省が高速道路無料化社会実験の開始日時と路線を発表。
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