いい気分の提供
きちんと着飾ったミナルーシュとルゥジゥはドアマンという門番を突破して目的のバーに入れた。
中は照明が暗く歓談する客の声もジャズの生演奏がうまく被さって聞き耳も立てにくい。
ミナルーシュはルゥジゥを連れてするすると移動してバーテンダーがグラスを拭いている前のカウンター席に陣取った。
「こんにちは」
「こんにちは、マドモアゼル。こんなにも愛らしいお客様は珍しいですね。お相手に選んでいただいて光栄です」
仕立ても振る舞いもシュッとした若手のバーテンダーは、店に似つかわしくない子供という感想も素敵な表現で声に乗せてミナルーシュにいい気分をサービスしてくれる。
これは確かに一流だとルゥジゥは琵琶を取り出しそうになった手を
「あのさ……なんだっけ? 音楽家さんの名前?」
それでもミナルーシュは肝がすわっているのか、それとも小娘らしく物怖じしないのか、あるいはゲームだから相手されないなんて有り得ないと判断しているのか。いつも通り気安く相手に話しかけようとして、しかも目的の作曲家の名前が思い出せなくて隣にいるルゥジゥに確認を取るなんていうぶしつけな態度を取る。
ルゥジゥはちらりと若いバーテンダーを見るが、子供相手だからか、気を悪くした様子もなく笑みを流している。
「マエストロ・ヴェルトヴィンを探しているんだ。ここに来たりするかな?」
この店でミナルーシュに任せておくと心臓に悪いから、ルゥジゥが話の主導権を奪う。
バーテンダーは少し目尻を下げて、困るな、と表情を作った。
「すみません、他のお客様のプライバシーを守らなくてはなりませんので、その質問にはお答え出来ません」
まぁ、そうだろうなとルゥジゥは引き下がる。ここでペラペラと話してくれるような店ならこんなドレスを買う必要もなかったはずだ。
しかしミナルーシュはここまで来て情報の一つも手に入らなくて少しむくれている。
バーテンダーは目ざとくミナルーシュの不満を感じ取ったのか、にこりと人好きのする笑顔を見せた。
「まずはウェルカムドリンクを振る舞わせてはいただけないでしょうか? よろしければボクがお二人のためにモクテルをお作りしますよ。ゆっくりとお話をしましょう?」
「ありがとう、お願いするよ」
この店の感じに少しは慣れているルゥジゥが直ぐに返事をする。
うまく流れに乗らないとここでは会話の行き先をコントロール出来ない。
ここは気分良い時間を提供する店だ。目の前のプロは会話の中身なんか無関係に、ああ、来てよかった、という気持ちを土産に持たせてくれるだろう。
でもそれは裏を返せば、聞きたいことを聞くのが気分がいいんだ、と示せばそう振る舞ってくれる訳だ。
お互いの要望を重ね合って、どちらも損をせずに価値だけを生み出す。その生まれてくる価値を自分が元々望んだものに出来るかどうかという点で、少しばかりのテクニックが要求されている空間だ。
そう判断して身の振り方を決めてルゥジゥのドレスの袖をミナルーシュが強く引っ張った。
「ねぇ、あっちのペースに乗せられてない?」
ミナルーシュはシェイカーを振るバーテンダーを盗み見ながら不満を漏らす。
「そういう子供っぽいところが、さっきの失敗になってるんだぞ」
「えー」
そもそも普通の中学生にそんな大人の振る舞いを分かれというのが少しばかり無茶な話だ。
ミナルーシュもゲームとデザインセンスでは大人顔負けの実力を持っていても、対人関係では持ち前の明るさと相手の懐にためらいなく踏み込む度胸だけでゴリ押ししている。
「てか、ルゥジゥってこういうのめんどくさいって言う立場じゃなかった?」
「何言ってるんだ。琵琶を弾く場を作るのに大人をいい気分にさせるのは大事な技術だよ」
ステージを用意してもらうとまでいかなくても、社交辞令ではなく実際に琵琶を弾く機会を得るには、聴く相手にも場所と時間を作ってもらう必要がある。
単純に言えば、琵琶を持った人間が座り十分に腕を振るえるスペースも必要だし、一曲弾く時間を相手に開けてもらわなければいけないし、そういったものを引き出すのに相手をその気にさせるのはルゥジゥにとって必要経費に近い。
普通の生活で琵琶を弾くのも琵琶を聴くのも出てこない選択肢だ。特に幼かった時分は大人に弾いて見せてと言わせないと、
ミナルーシュがそんなルゥジゥを、こいつ本当にブレないなと改めて目を離せなくなったところで、二人の前に足の長くて杯の小さなグラスがそっと置かれた。
ミナルーシュの方はサクランボが沈んだ淡い水色のドリンクで、ルゥジゥの方は無色透明で見た目はシンプルな一杯だ。
「え、お酒?」
ミナルーシュはドラマで見たままのグラスを前にして思わず声を出してしまった。ゲームなら別に未成年が飲酒しても法には触れないけれど、ヴァーチャルでの飲酒で味をしめた子供が現実で犯罪を走らないように注文時には『これはお酒です』という注意喚起がポップアップするはずなのに。
「いえ、モクテルはノンアルコールですよ。安心してお飲みください」
バーテンダーの優しく教えてくれる声が、なんだか余計に子供扱いされてるみたいに思えてミナルーシュはほほを赤くしてしまう。自分の横でルゥジゥのが堂々とグラスを傾けているのも腹立たしい。
「美味しいね」
「ありがとうございます」
ルゥジゥが確かに美味しそうに飲んでいるのを見て、ミナルーシュも自分に出されたモクテルに口を付ける。
途端に、爽やかに、でも懐かしいような甘さが口から鼻に抜けていって、ミナルーシュは驚いた。
「わ、おいしい! なにこれ!?」
思わず声を上げたミナルーシュは、バーテンダーに微笑みかけられたのにバツが悪くなって、そっとグラスをカウンターに置いた。その拍子にモクテルの液面が揺れる。
そっとルゥジゥの方を見ると、彼女はミナルーシュの視線に気づいて自分のグラスをカウンターにさり気なく置いた。その表面は波一つ立たせていない。
負けた、とミナルーシュは静かに気分を沈める。
「お二人はお友達ですか?」
「そうだよ。向こうでも知り合い」
「向こう、とは?」
「ああ、私達は来訪者ってやつでね」
「そうなんですかっ。ボクは初めて来訪者にお会いしました」
そんなミナルーシュを尻目に、ルゥジゥがバーテンダーと軽快な会話をしている。
ミナルーシュは構ってもらえないのにいじけて、サクランボを摘む。
「どうしてレトリックランドにいらっしゃったんです?」
「琵琶が弾けるってこれに聞いてね」
「琵琶、とはなんでしょう?」
「向こうの楽器だよ。こっちでも【
「よろしければ、是非」
ルゥジゥは話したがりで自分を知ってほしいと思っている女を演じて、バーテンダーを誘う。
表向きの演技に釣られてか、それともルゥジゥの本音に寄り添おうとしたのか、バーテンダーは質問を繰り返してルゥジゥの招きに応じた。
バーテンダーは琵琶を取り出したルゥジゥに少し聴かせてほしいと請う。
ルゥジゥは目論見通りの言葉を引き出せて、すっと目を細めた。
そして力強く琵琶を
バーの隅に構えられたスペースで演奏していたジャズメンバーの視線がルゥジゥに引き付けられた。
ルゥジゥは伏し目がちに視線を流して、
店のBGMがジャズの生演奏なのは、ルゥジゥにとって好都合だった。自由を気風にしているそのジャンルの演奏家達は、突然のセッションをむしろ好ましく楽しむタイプが多いから。
ルゥジゥが気ままに琵琶を掻き鳴らし始めると、ジャズの面々はその音楽性を捉える順番に従ってそれぞれに演奏を重ねてくる。
ある者はルゥジゥのメロディを追い駆けて、ある者は自分らしくベースを踏んで先導し、ある者は音の谷間に自分の音を差し込んでくる。
たまにはこうして誰かと音を楽しみ合うのもいい、とルゥジゥは気分が乗ってくる。
ルゥジゥが求めた通りに店内に満ちる音楽に聴き入るバーテンダーに、ルゥジゥは声をかける。
「さっきも路上で演奏してたんだ。そしたら、その演奏をマエストロにも聴かせてやってくれと通行人にお願いされてね。人助け、というやつさ」
琵琶は元から謡いと合わせる楽器だ。弾きながら会話はそれすらも演奏になる。
バーテンダーは今まで聞いたこともないそのスタイルに戸惑って、一瞬だけ足踏みをしたけれど、ルゥジゥがしっかりと目を合わせると自分が会話を求められているのをすぐに理解してくれた。
「それでマエストロのことをお尋ねになったのですね」
横で聞いているだけだったミナルーシュは、ルゥジゥがまさかバーテンダーに話をさせるだなんて出来事に目を丸くしている。
こんな出来るルゥジゥなんて知らないとか思っているに違いない。
「ここには音楽を求めていらっしゃる方も多く、中にはプロもいらっしゃるようです。貴女の演奏ならそういった方々の興味を引いて個人的に仲良くなれると思いますよ」
ルゥジゥは必要な手続きが出来たと唇の端を持ち上げる。
店側から個人の情報を勝手に与えるのは出来ない。けれど客同士の交流はむしろ喜ばしい。
そしてルゥジゥが望む交流にはどうしても琵琶の演奏を伴う。その許可をこうして得られた。
それともう一つ、ついでの要求も伝えておくのが最善だろうとルゥジゥは言葉を付け足した。
「私はルゥジゥ。もし興味がありそうな音楽関係者がいたら、私のことを伝えておいてくれるかな? 珍しい楽器を弾く凄腕がいるってさ」
「かしこまりました」
これで店にいられない時も情報が入って来るように出来た。
ヴェルトヴィンにたどり着くまで先は長いかもしれないが、のんびり琵琶を弾いていていいならどれだけ時間がかかってもルゥジゥが気にすることではない。
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