第8話
綾子は、俺より十センチも背が高い。普通なら、こんな風に綾子の頭を抱きしめるなんて出来ない。
でも今はしゃがんでいるから、綾子の頭は俺の腰くらいだった。
「川辺の野郎なんか、忘れちまえ。綾姉には、俺がいるだろ。お前の事は、俺が守ってやる」
そんな言葉が、思わず口からついて出る。
その時は、訳のわからないまま咄嗟にそう言ってしまたんだが、後で考えればそれは紛れも無く告白だったんだろう。
多分俺は、その時初めて綾子を、好きな女として意識したんだと思う。
でも綾子は、俺を餓鬼としか思っていなかった。だから俺の告白も、単なる餓鬼の戯言くらいにしか聞こえなかったんだと思う。
「ありがとう、いっちゃん」
綾子はそう言って、照れくさそうに、にっと笑った。
それから涙を拭いて、そっと俺の手を振りほどく。
「ねえ、たこ焼き食べようか?」
立ち上がって俺を見下ろした時は、もう何時もの綾子に戻っていた。
さっきまで下にあった綾子の頭が、もう俺の頭より上にある。
見上げなければならない、綾子の顔。
俺には、十センチの違いが、超えられない壁のような気がして、酷く情けない気持ちになった。
失恋から立ち直った綾子は、それから猛勉強を始めた。俺も出来る限り、受験の邪魔をしないよう心がけた。
けれど、俺の綾子に対する思いは、日に日に強くなるばかり。
綾子はなんだか段々綺麗になって、俺には手の届かない所へ行っちまいそうな気がした。だから、焦りばかりが先走る。
早く大人になりたい、早く大人になりたい、そればかり繰り返していた。
俺の中で綾子は、もう姉ちゃんじゃなかったんだ。
あの夏の日以来、俺は彼女を綾姉とは呼ばず、綾子と呼ぶようになった。綾子は驚いた顔をしたが、すぐに俺の額を指で弾き、にやりと面白そうに笑った。
「こいつ、生意気~」
なんて言われたけど、駄目だとは言わなかった。
綾子は猛勉強をしたお陰で、無事に大学に受かった。けれどそれは、気の遠くなる程遠い、東京の大学だった。
俺は、綾子から東京に行くと聞いた時、激しいショックを感じた。東京に行ってしまったら、今までのように会う事は出来ない。
きっと、向こうの暮らしが大事になって、俺のことなんかすぐに忘れてしまうだろうと思ったんだ。
だから俺は、綾子に行くなと言った。けれど綾子は、笑って俺にこう言った。
「何よ、一生会えない訳じゃないんだから。いっちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、そろそろ大人にならなきゃ駄目だよ。そんなんじゃ、彼女出来ないよ」
冗談っぽく言って、俺の頭をポンと叩く。
俺は、餓鬼扱いするなと腹を立てた。すると綾子は、餓鬼なんだから仕方ないじゃないかと言って、また笑った。
綾子にとって俺は、所詮弟に過ぎないのだ。それを思い知らされ、しばらく落ち込んでしまった。
そうこうしているうちに、綾子が東京へ行く日になった。
俺は結局見送りには行かず、部屋の窓から、綾子が歩いて去っていく後ろ姿を見ただけだった。
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