第1話
「隣に引っ越して来た、木下です」
ある日、俺の家の玄関先に、綺麗なおばさんと可愛いお姉さんが現れた。
俺は、地区の少年野球クラブに入っていて、毎日学校が終わると練習に出かけていた。
だからその日も、何時ものように泥まみれになって、家に帰って来たばかりのところだった。
俺が帰って来たのと入れ替わりに、母さんは夕飯の買い物に出かけた。弟や妹も母さんについて行ったので、俺は一人で留守番を任される事になった。
手や足や顔も汚れていたし、真夏の暑い盛りだったんで、汗びしょびしょ。俺はスポーツバッグを階段の下に投げ出すと、すぐさまシャワーを浴びるために風呂場に向かった。
汚いユニフォームを脱ぎ、洗濯機に放り込む。それから、ズボンを脱ごうとした時、丁度玄関の呼び鈴が鳴らされた。
小さく舌打ちする。誰が来たのか知らないが、面倒くせぇと思った。
でも、出ない訳にはいかない。俺は上だけ裸になったまま、仕方なく玄関の方へと向かった。
もう六時だし、この時間に来る奴なんか、どうせ啓介おっちゃんくらいなもんだ。そう思って、あまり考えもせずに扉を開いた。
そしたら、目の前に見知らぬ人達が立っていたんだ。
淡い桜色のブラウスと、クリームがかった白いスカートと言う姿の、優しそうで美人なおばさん。それから、セーラ服のお姉さん。
俺は、しばらく呆然と二人を見つめていた。
すると、おばさんの方がにこにこ笑って言った。
「隣に引っ越して来た、木下です」
って。
言われて俺は、ぎょっとしながら数歩後ろに下がった。
別に、怖かった訳じゃない。
そん時俺は十歳の餓鬼で、女なんかにゃ興味なかったけど、そのセーラー服のお姉さんはアイドル歌手みたいに可愛くて、ちょっとばかり戸惑ってしまったのだ。
「お母さんは、いるかしら?」
おばさんの方が、やっぱりニコニコ笑ったまま聞いてくる。
俺は、無言のままぶんぶんと勢い良く首を横に振った。
俺はどっちかって言えばやんちゃな餓鬼で、大人にも馴れ馴れしく話しかけるタイプだったが、その時ばかりは妙に緊張して、喉がくっついたみたいに声を出す事が出来なかった。
「仕方ないわね。綾子、明日にしましょうか?」
おばさんが、可愛いお姉さんに向かって、おっとりと言う。お姉さんは、うなずきながら、すっと視線を俺の方へ向けた。
大きな瞳が、ためらいもなく真っ直ぐに俺を見つめる。
そして、
「今晩は、君、名前は?」
なんて、明るい調子で話しかけてきた。
おれはどぎまぎしながら、顔をうつむけてぼそりと言った。
「・・・・・壱。菅原、壱」
「いち?じゃあ、いっちゃんね。あたし、綾子って言うの。よろしく」
俺の顔を覗き込むようにして、彼女がその可愛い顔に浮かべた笑みは、まるで日だまりのように暖かく、そして実に爽やかな笑みだった。
なんだかこっぱずかしくって、俺は意味もなくごしごしと手の甲で顔をこすったが、そんな俺の汚れた手をためらいもなく握る、綾子の優しい手の温もりを今でも覚えている。
それが、俺と綾子の最初の出会いだった。
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