ガイ、ベティーに感謝する・4

 正午を過ぎ、少し雲が出て日が陰り、この辺一帯が不穏な気配に包まれていた。   

 鼻を覆いたくなるほどの生臭い匂いがしているからだ。何かが腐った匂いと汗と皮膚の汚れた匂いが混じった醜悪な匂いが、この辺り一帯に充満していた。


 ニューヨーク警察から応援を呼び、建物を包囲した。連邦特別捜査官たちは突入の機会をうかがっていた。

 ここマンハッタンから北に位置する寂れた地区であった。荒れた雰囲気があり、人通りも少ない。グレオールの縄張りの中でも一番端に位置し、ハドソン川にも近く、建物もまばらにしか建っていない空き地が多い場所であった。

 四階建ての寂れた建物は閉じられており、中は空き室のように見せていたが、この建物をシャーマンが使用している情報は掴んでいた。


「なんだ、この匂いは?」

 連邦特別捜査官たちはこの匂いに閉口し、誰もが動揺を隠しきれなかった。


「ダイルソン捜査官、これは魔物の影響ではないのか?」

「キャスパー捜査官」

 ラインは建物の入り口まで近づき、隣にいるキャスパー捜査官へ視線を向けた。

「このまま突入するのはまずい。神将を待つ方がよい」

 ラインは険しい顔で首を左右に振った。

「昨日、グレオールの者たちが女性を連れ去ったという通報がありました。その女性がこの辺りで男たちと一緒にいたという目撃情報もあります。彼女を連れ去った目的は、また魔物を呼び寄せるためでしょう。これ以上の犠牲は大きな魔物を呼び寄せる可能性があり、より危険です。早く女性を助けるべきです」

「しかし、これは異常だ」

 

 ラインもそれはわかっている。この匂いと空気の重さは、魔物が出る前兆であった。それもかなり大きな魔物ではないのかと推測する。

 すでに魔物が現れているのか、いやまだ現れていないはずだ。現れていれば餌を求めて建物の外へと出てきているだろう。まだ現れていないと思うのは、これほどの腐臭がする魔物を人が制御できるはずがないからだ。

 

「まだ、魔物は出てきていません。魔物の出現を阻むためにも、私たちはシャーマンの身柄を抑えるべきです」

 キャスパー捜査官は迷うように建物を見たが、小さく息を吐き出し、覚悟を決めたようであった。すぐに彼は包囲している警察官たちに、建物に突入するよう指示をした。  

 キャスパー捜査官はラインの腕を掴み、険しい表情で迫った。

「勝手に無謀な行動をされたら困る。わかっているのか? 」

「わかっていますよ」

 ラインはキャスパー捜査官の手から逃れると、わざと笑みを浮かべた。



 ラインは胃がひっくり返るほど緊張していた。

 十八歳で警察に入り、連邦特別捜査官になってから七年、全米各地を歩き回った。魔物がらみの事件が起これば、どこであろうと現地に向かった。

 どのような事件でも引き受けたのは、ガイがどこにいるのかわからなかったからだ。

 彼が全米にいない可能性もあった。学園を出ていった後、彼の消息は全くわからなくなり、探す手がかりもなかった。

 事件を捜査していても、神将と会える可能性はあまりなかった。それほど神将は貴重で稀有な存在であった。

 これまで機関から派遣されてきた者たちは、機関に勤めている者か、または準将であった。運よく神将に会えても彼ではなかった。この七年、ラインは手がかりのない中で彼の行方を追った。

 神将たちに、それとなく彼の名前を聞いたこともあったが、何もわからなかった。それに神将たちは秘密主義だ。なかなか教えてくれることはない。それでもラインは諦めきれなかった。


 今回の任務で偶然彼と会えたことは本当に驚いた。

 彼とは十年ぶりの再会であった。彼はぞっとするほど美しく強い神将になっていた。あのような人を欺くような外見をしていたが、彼の強さは知っている。学生の時、彼が魔物を滅ぼした光景はいまだに心に焼き付いている。


「勝手な行動をするなだと」

 それは無理な注文だ。

 ラインにとって魔物は戦わなければならない敵だ。それが自分の使命だと思っている。


 建物内は廃虚となっており、何もなく荒れていた。そして、奥へ行けば行くほど匂いがきつくなっていく。息を潜めて進んでいった。

 上の階から怒鳴り声と複数人の足音が聞こえてきた。上の階に上がった警官たちがギャングたち相手に応戦しているようだ。

 ラインは匂いのきつい方向に進んでいった。キャスパー捜査官はラインの後ろに付いてきながら、後ろにいる仲間たちに手を振って急ぐように指示をした。


「ダイルソン捜査官、嫌な予感がしますね。やはり一度‥‥」

 ラインはキャンスパー捜査官に返事せずに、かたっぱしから部屋の中に入り、シャーマンがいる部屋を探した。匂いは下の方からするように感じられる。

「ダイルソン捜査官、勝手な行動をするな!」

「地下があるはずです」

 一番奥の部屋に入ると、コンクリートむき出しの窓のない部屋だった。その中を見回し、床や壁を手や足でたたきながら隠し扉を探していく。足でたたいたときに音が違う場所に気が付き、ラインは膝をついてその場所を丁寧に探してみた。


「仕掛けがある。ここだ」

 ボタンらしきものを押すと、床が動き、下に続く階段が現れた。

「この下だ」

「待て!」

 キャスパー捜査官の静止を無視し、ラインは階段を下りていく。数歩降りたところで背後で争う声が聞こえ、ラインは振り返った。グレオールの者たちがキャスパー捜査官ともみ合っている姿が見えた。キャスパー捜査官がすぐに彼らを取り押さえたのを見て、ラインはそのまま階段を下りていった。


「勝手なことをするな!」

ラインは足を止めずに、上からの光だけを頼りに階段を下りて行った。







 ワゴン車の後部座席で、ガイは手に持っている手鏡を見ながら自分の部下を呼んだ。

「ハリー、これが何の意味があると思う?」

「知りません」

 即答したハリーにガイは苛立ちを込めて睨んだ。

「少しは考えろ」

「娘のような年齢の少女の気持ちなど、おじさんにはわかりません」

 ガイは思わず納得したように大きく頷くと、逆に本気でハリーに睨まれた。


 機関を出る前に偶然にもベティーと会い、渡されたものだった。

 第三部隊でお手紙の仕分けの仕事をしているベティーは、第九部隊の郵便物が第三部隊に届いていたとわざわざ持ってきてくれたのだ。

 これから任務に行くため事務局に渡すように言ったが、ベティーは大真面目な顔でガイに渡した。ベティーがいうには、任務に出る前にこれがガイのもとに届けられたことに意味があるという。馬鹿馬鹿しいと言えないのは、ベティーが女神だからだ。


 時間もなかったのでそれを受け取り、今、車の中で封を開けて中身を確認し、正直困惑しているところであった。

 中に入っていたのは、化粧品会社の試供品と安物のおまけについていた小さな手鏡だった。


「ゲイブ、おまえ宛だ」

「前の任務で関係のあった会社です。男でも化粧水を使う時代だとかで、試供品を送ると言っていました。本当に送ってきましたか」

「おまえの顔を見て送るやつは、相当な馬鹿か、おまえのことが好きかだな」

 ゲイブは大真面目な顔でガイを見た。

「どちらもノーサンキューです」

 思わず、大真面目な顔で冗談を言うゲイブにガイはちらりと見ただけで、それ以上何も言わなかった。疲れるだけだ。 

「まあ、いいか」

 ガイは持っていた試供品と手鏡を制服のポケットに入れた。真面目な顔で渡してきたベティーに、文句は言うつもりはなかった。まあ、こういうこともある。


 車は寂れた地区へと入った。その瞬間、ゲイブとハリーの顔色が変わる。

「魔物が現れているのか」

 ゲイブは窓から身を乗り出し前方を見ると、ガイの耳には銃声が聞こえ、多くの警官たちで囲まれている建物が見えてきた。その建物から強烈な魔物の匂いがした。

 

「やべえな。結構、大きな魔物が出るな」

 ワゴン車は当たり前のように警官とギャングたちの間を通り抜け、建物の前に止まった。

「おい!」

 怒鳴りつける警官たちの声を無視し、ガイたちは車から降りると、その姿を見てギャングも警官たちも一斉に動きを止める。


 ギャングたちは、ガイたちを見て体を震わせていた。この中で一番えらいやつだろうと思われる男にめぼしをつけると、ゲイブがその男の前に立った。男はのけ反りながら、数歩後ろに下がる。

「私たちの目的はおまえたちではない。通してもらいたい」

 ゲイブの一言で、男はあっさりと降参し、両手を挙げると、周りにいる者たちにも抵抗しないように指示をした。

「あんたたちが来るということは、それほどやばいってことか?」

「この建物からさっさと離れろ。大物が出てくるぞ」

 ゲイブの言葉に、男たちは一斉に建物から出て走り出した。ガイたちの様子を見ていた警官たちが逃げる男たちを捕まえる。彼らが捕まえている姿を尻目に、ガイたちは建物内に入った。


 ハリーは連れてきた二人の神将に上に行くように指示を出し、ガイとゲイブから離れ、一人別行動をする。ゲイブはガイの後ろにつき従った。

 ガイは迷うことなく、一階の奥の部屋に向かった。魔物の匂いと瘴気が発生している方向であったからだ。所々で争った跡が残っていたが、倒れている者は見当たらなかった。一番奥の窓のない部屋に入ると、床が開いており、地下に通じる階段があった。


「全員、下に行ったのか」

 地下に続く階段からは魔物の匂いがするが、人の気配はなかった。かなり下まで降りる階段なのかもしれない。

 ガイは面倒くさそうに階段を下りて行った。







 ラインは、かなり長い階段を下りて行った。

 感覚的には四階分ぐらいは下りたように思う。ようやく階段が終わった先には、一つの扉があるだけだった。小さなライトで照らされた扉のノブを握り、ためらうことなく扉を開いた。

 

 その先の空間は意外と広く、煌々と天井から明かりがともっているため中は明るかった。

 二百平方メートル以上の広さがありそうな部屋には、床に大きな魔法陣が書かれていた。魔法陣の周りには、山積みの書物と大小の檻や何百ものガラス瓶でできた入れ物が床に散乱していた。

 部屋には三人の男とシャーマンの格好をした老人の四人だけであった。老人は魔法陣の中心に座り、すでに儀式が始まっているようであった。


「何だ、おまえは!」

 三人の男たちがラインを見つけて、口々に怒鳴った。

「騒がしい」

 魔法陣の外にいた男たちがこちらに向かって来ようとしているのを、老人が鋭い声で止めた。ラインは辺りを見回したが、連れ去られた女性の姿はどこにも見当たらなかった。ただ、老人の衣服と彼が座る周りは赤黒い色で濡れていた。 

 服の中に隠した銃を握りしめ、シャーマンだけに意識を集中させた。助けられなかったのかという後悔と、本当に魔物が現れるのかという恐怖に歯を食いしばり逃げ出したい衝動と戦った。


 年老いたシャーマンがゆっくりと瞳を開くと、ラインを見て笑った。

「私は魔物を支配する力を持っている」

「愚か者だ。女性はどこだ?」

「いないよ」

 老人はゆっくりとここに消えたと言わんばかりに魔法陣を指さした。魔法陣は淡く光り、床に描かれた文字がゆらゆらと揺れている。まさかあの魔法陣は別次元とつながっていると言うのだろうか。女性は別次元に飲み込まれたというのだろうか。

 顔色が悪くなったラインを見て、老人はにやにやと笑いながら魔法陣を触った。魔法陣が動き出し、地面に書かれた模様が勢いよく動き出す。

 

 ラインの背後から数人の足音が聞こえてくると、キャスパー捜査官の怒鳴り声が響いた。

「全員、あれを止めろ!」

 仲間の捜査官の数人が、次々と部屋の中に入ってくる。

「なにしやがる! 」

 この部屋にいた男たちが怒鳴りながら銃を手にした。


「おまえたち動くな」

 老人は男たちに向かって指示をすると、こちらを見て笑った。

「もう遅い」


 魔法陣の模様の動きが止まった時、床から盛り上がる緑の腐肉が見えた。誰もが強烈な腐臭に手を止めて、手で顔を覆う。ラインも鼻と口を手で覆い、吐き気をこらえた。

 何か大きなものが出てこようとしていた。


「魔物だ!」

 キャスパー捜査官は、そういいながら魔物に向かって引き金をひいた。

 緑の頭が見え、そして濁った灰色の目が現れる。キャスパー捜査官の攻撃も魔物には効いていなかった。

 シャーマンは愉快そうに笑い、魔物に命令した。

「魔物よ、やれ」

 

 緑色をした醜悪な魔物は上半身を現す。シャーマンを囲むように左右上下に四体の魔物が現れた。

「トロール」

 ラインは畏怖を込めて魔物の名前を口にした。神話にも出てくる醜悪な魔物は、その大きさが四メートルを超えている。三人の男たちは笑いながらやっちまえと魔物を煽った。

 トロールの大きな口から吐かれる腐った息に、ラインを含め、この場にいる特別捜査官たちと警察官たちも体の力が抜けて床に膝をついた。


「あやつらをやれ」

 シャーマンはまるで己が神のように命令した。シャーマンの後ろにいたトロールが大きく口を開き、そしてそのまま頭からシャーマンを飲み込んだ。

 思いもよらない展開に誰もが唖然とその光景を見ていた。おそらく、シャーマン自身も何が起こったのか理解できなかったであろう。彼はトロールの中に消えた。


「うあああ! 」

 魔法陣の近くにいた三人の男たちが悲鳴を上げ、それに反応したようにトロールたちの手が男たちを掴もうと動く。トロールに掴まれた男はその手の中でもがき、抵抗をする。しかしその抵抗もむなしくあっけなく男は動かなくなった。

 ラインはポケットから魔物対策としている聖水を取り出すと、一番近くにいるトロールの顔にめがけて投げた。魔物は浄化を嫌がるからだ。

 

「放て!」

 キャスパー捜査官の号令でトロールに向かって一斉射撃をした。雨のように銃弾が降り注がれるが、緑の体はそれをすべて受け止め、平然と立っていた。鉛はすべて魔物の体の中に消えていった。


「助けてくれ!」

 残っていた二人の男がこちらに向かって走り出すが、すぐ近くにいたトロールの腕にぶつかり、男たちは遠くに飛び床に落ちた。この緑の魔物は、人が敵う相手ではなかった。

 

「だめだ! 逃げろ!」

 捜査官たちの声が響きわたる。


「逃げてどうする!」

 キャスパー捜査官は怒鳴り返し、後から来た警官が持ってきた対魔物用のバズーカを手にすると、一番前にいるトロールに向けた。

「無理だ!」

 誰かが叫ぶ声が聞こえたが、キャスパー捜査官はためらうことなくバズーカを放った。しかし、ロケット弾は魔物の体に当たるが、あっけなく緑の体に飲み込まれ消えていく。キャスパー捜査官は続けてバズーカを放ったが、ロケット弾はすべてトロールの体の中に消えてしまった。

 魔物はにやにやと笑い、圧倒的な力さの差と絶望を人々にもたらした。


「だめだ、終わりだ」

 誰かの絶望の声が響いた。

 

 ラインの体はまひしたかのように力が抜け、思うように動けなかった。一体のトロールが魔法陣から出ようと前に進む。しかし、頭が天井につっかかり思うように進めずに暴れた。その度に地下の部屋が大きく揺れ、倒壊するのではないかと別の恐怖を抱かせた。

 他の三体のトロールたちは、まだ下半身が地に埋まっていた。その三体もこの世界に出るために激しく動き出した。

 一体の魔物が腐った息を吐き出し、まっすぐとラインへと動き出す。

 魔物の動きは早く、緑のおぞましい顔がラインの目の前に迫り、大きく口を開いた。それは運命の一瞬であった。

 食われる。それだけがラインの脳裏に浮かんだ。 


 その時、光が魔物の顔に当たり、魔物は顔を歪め、そしてラインの目の前で口を開いたまま凍り付いたように動きを止めた。

 この数秒の間が運命を変えた。 

 ラインの顔の横から腕が飛び出し、トロールの鼻っ柱を殴りつけた。あの巨体が後ろに吹き飛び、魔法陣の中へ地響きとともに倒れた。


「あぶねえなあ、ぎりぎりセーフだ。やれやれ、愚かなやつだ。あんなものを呼び出しやがって」


 いつの間にかラインの前に赤い炎があった。いや、それは髪の色だとわかるのに時間がかかった。紺の制服を着た男の横顔はとても美しかった。


「ゲイブ、ハリー、結界を二重にしろ」


 ラインにとって懐かしい声が響く。この場にいる捜査官たちの誰もが状況を把握できずに、呆然と立ち尽くした。いつのまにか魔法陣の左右に二人の男が立っていた。紺の制服を着た男たちはゆっくりと空中に浮かんでいった。

 ラインは震えながら、ガイの名前を心の中で呼んだ。


 炎のような赤い髪の男はゆっくりと歩き出すと、そこに見えない階段があるかのように上へと上がっていく。

 後ろでキャスパー捜査官がうめき声が聞こえた。

「高位の神将か。あの制服は神団。ニューヨーク機関の神団か」


 ガイの手のひらに炎が浮かぶ。それも凝縮された濃い炎だ。強い、まるでマグマのような凝縮された炎に、捜査官たちは無意識に後ろへと下がった。ゲイブとハリーと紹介された男たちとともに、魔法陣を囲むように三人は三角形の位置につく。

 四体の魔物はまるで縛られているかのように、魔法陣の中で蠢いているだけであった。


「隊長」

「おまえたちはそのまま結界を張れ。最近、イライラしている。このぐらいストレス発散させろ」

 そういうと炎を緑の化け物に向けて無造作に当てた。

 ぎゃあ、ぎゃあと叫びながら魔物は炎に包まれる。 


「まったく、よけいな手間をかけさせやがって」

 ガイは文句をいいながら、凝縮された炎を手当たり次第に当てる。トロールたちは獄炎の中でもがいていた。不思議なことに、炎は魔法陣の外には燃え広がることはなかった。


 神将たちによる一方的な戦いが繰り広げられ、あれだけ恐ろしくも絶望的な状況が一変した。あれほど強大な魔物が一人の神将によって決着がつきそうであった。

 四体のトロールは炎の中から抜けることができずにもがいている。そして、その鋼のような体が次第に炎の中でとけるように小さくなっていく。最後はあっけなく消えてしまった。

 トロールたちは消えたのに炎が収まることはなかった。それどころか、ガイは炎を作り出し、魔法陣の中に投げ込むことをやめなかった。


「隊長、いつまで炎を作っているのですか。そろそろやめてくれませんか?ちょっと熱いのですが、結界を張っているこちらの身にもなってください。結界がなければ、この辺り一帯、あとかたもなく消えますよ」


 ゲイブが淡々とした声で告げた。捜査官たちは恐怖の悲鳴を上げた。


「ああ? このぐらいで根を上げるな!修行だと思え、全然本気でやっていないのだぞ。一応手加減してやっているのだからな。まったく、このぐらいだとストレス発散にもならねえじゃねえか」

「そろそろ火を消して、次元を修復してください」

 ハリーが大真面目に声をかける。

「おまえにこの苛立ちがわかるかっていうの!」

「すみませんが、まったくわかりませんね。久しぶりに頭を使われたので脳疲労ですか」


「違う!アレスが最悪だ! ハリー、おまえがアレスに一喝してこい! ベティーに馴れ馴れしくて気持ちが悪いんだよ! と言ってこい!」


「言えるはずがありません。まだ命を大切にしたいです。いいじゃないですか、アレス様も少しは穏やかになるかもしれませんし」


「ハリー、情けないやろうだ。それならレイスターでもいい、あいつ、本気でムカつくんだよ。あの野郎、今日、朝めしで俺の分の白パンを食いやがった! ベティーが焼いた絶品の白パンを一つ残らず全部食ったんだぞ、許せねえ! 俺は既製品の食パンだった! マジで許せねえ!」


「家庭の問題を職場に持ち込まないでください」

「ああ!? 」

 ガイが凄まじい形相でハリーを睨んだ。

「レイスター様も怖いので言えません。というか全員隊長じゃないですか、そんなアホなことで隊長に意見を言えるはずがないでしょう。冷静になってください」

 ハリーはのんきに返事している。

 神将たちの暢気なやり取りに、特別捜査官や警官たちは呆れ返った。


「何よりも腹が立つのは、久しぶりに会った友達が勝手に死にそうになっていることだ!」

 

「文句は、直接、本人に言ってください」

 ハリーは朗らかに笑いながら言うと、ガイは顔をしかめて手を握りしめた。その瞬間、あれほど燃え盛っていた炎が一瞬で消えた。そして、魔法陣らしき場所の上には歪んだ空間が見えた。


「ああ、いらつく。ほら、ゲイブ、これ直せ」

 ゲイブは淡々と答える。

「結界中です。隊長が直してください」

「ああああ! ハリー、おまえが直せ」

「結界中です。瘴気がわんさかですから動けません」

「うそこくな! 動けるだろうが! 結界を張りながら直せるだろうが!」

「隊長の方が近いじゃないですか。それに早いし、お願いしますよ。せっかく来たのですから、それも来たくて来たのでしょう。私たちは残ったらと言ったのに」


「うるせえ! 今日はやたらと口答えしやがって!」


 捜査官たちが言葉を挟む余地のない展開が続いていた。

「さっきから隊長が八つ当たりするからです」

 ハリーが答える。ゲイブは無言だ。


 けっとガイは悪態をつくと、ずかずかとこげこげの魔法陣へと行き、変な感じに歪んでいる場所に手を突っ込んだ。そしてぐるりと腕を一周させると、歪みはきれいになくなった。その後、乱暴にガンガンと床を蹴ると、黒いかすみのようなものが湧き上がり、上に上がる前に消えた。

 神のごとく美しい容貌の神将が腕を一振りすると風が起こった。そして風は部屋の中を一周して消えると、むっとした顔のまま二人の神将を見た。


「結界を解いてもいいぞ。瘴気はまとめたから」


 空中にいた二人は静かに床に着地した。

 捜査官と警察官のほぼ全員が、その場にへたり込んでいた。キャスパー捜査官は立ったまま、深く息を吐き出すとガイへと声をかけた。

「トロールは滅びたのですか?」


 ガイは振り返ると、最初に見せていたギャングのような粗野な雰囲気はなくなっていた。美しき神将は宙を舞い、こちらへと来た。

「報告書はあとで提出する。魔物はもういない。売買されたものもすべて処理した。あとはここの瘴気の浄化と次元の修正、魔物とのつながりを完全に消し去る作業がある。それも今日中に終わる」

 キャスパー捜査官の琥珀色の瞳が探るようにガイを見た。

「隊長と呼ばれていましたが、あなたの立場は? あなたのことを上層部に報告してもよろしいかな?」

 ガイの赤い瞳がきらめく。美しい顔が余裕な笑みを浮かべた。


「ニューヨーク機関、神団第九部隊隊長だ。うちもシャーマンに関しては、これ以上追及されたくない。グレオールに関しては俺の方からも口添えをしよう。おそらくマフィアの上層部はやつらの島を切ると思うぜ」

「神団隊長」

 キャスパー捜査官の声には畏怖が込められていた。


「ああ、階級は特将だ」


 ガイの赤い瞳が威圧的にキャスパー捜査官を見た。だがキャスパー捜査官は、少し目を見開いただけだった。座り込んでいた捜査官たちは畏怖の声を漏らした。


「ここまで違うものなのか。これが神団の力、神将たちのトップか。先ほどの魔物程度では相手にもならないということですかな」

「危険度Cだな。まあ、弱くもなく、強くもない程度だ。神団の神将ならあのぐらい滅してもらわないと仕事にならねえな」

 

 キャスパー捜査官の乾いた笑いが響く。


「まったく神将という者たちは、これだから嫌になる。わかりました、グレオールに関する助言を期待しましょう。それでは、私たちは私たちの仕事を終わらせましょう。困ったことに、ここにいた者たちは全員消えてしまいましたがね」

 キャスパー捜査官は座り込んでいる捜査官たちを見回した。

「さあ、さっさと立て!」

 同じく立っているラインに耳打ちした。

「君はそこの方から話を聞いてくれ。隊長殿に話を聞いたら、報告書を提出するように」


 にっと笑うと、外の者たちに指示をするために部屋を出て行った。

 ガイ以外の神将たちはすでにこの場の収拾に努めており、外で待機させている他の神将を呼び、念入りに浄化作業を始めていた。

 

「ライン、おまえにはじっくりと話がある」

 険しい表情をした美しい神将を前にラインは覚悟を決めた。

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