第17話 異界からの来訪者

 集落の中はしんとしていた。

 人影はないのに、視線を感じて私はまた緊張する。

 

 馬は一軒の家の前で足を止めた。

 家の屋根は茅葺で、軒が地面に触れそうに低い。

「降りるぞ」

 ミズキがまず、鞍から身軽に飛び降り、ついで私が降りるのを手伝ってくれる。

 長い時間、慣れない馬に乗っていたので、腰や膝が痛んだ。

「こちらへ」

 

 ミズキが家の入口の方へ私を連れていき、木の扉を開くと、中から明かりが漏れ出てくる。

 入口の上からは、木の葉と紙を組み合わせた奇妙な飾りが垂れ下がっていた。

 私はおそるおそる、ミズキに促されて家の中へ足を踏み入れた。


 狭い家の中は、床が踏み固められた土になっており、その真ん中には囲炉裏がきられ、赤々と炎が燃えていた。

 その炎の前には、ひとりの男が座っていた。

 黒い着物をまとい、肩まである長い髪はぼさぼさで、半白だった。

 私が入って来るのに気づくと、遠慮のない視線を向けてくる。

 異様に熱心なその目つきに、私は怖れを感じて目をそらす。


 ミズキが男に何か話しかけた。

 それに対して、男がしわがれた声で答える。

 ……共通語じゃない。これが、ワ語?

 聞き覚えがないはずなのに、どこか耳懐かしい感じがする。

 初めは何を言っているかわからなかったのに、やがてその言葉が輪郭をもって耳に入ってきて、私は驚き、混乱した。


「遅かったな」

 囲炉裏の前に座る男がそう言ったようだった。

「すみません。街で見つけるのに手間取りまして」

 ミズキが答えている。

「まあ、よい。ここに座らせなさい」

 ミズキが私の方を振り返って、「ここへ座れ」と共通語で言って、囲炉裏の横に置かれた低い木の椅子を指し示した。

 私はそろっと囲炉裏に近づいて、腰を下ろした。

 囲炉裏で燃える炎からは、煙の匂いとぬくもりが感じられた。


「名は?」

 男が私にたずねた。

 やはり共通語ではないのに、その意味もあやまたず理解ができて、私は戸惑い、思わずミズキの方に視線をやる。彼は少し離れて立ったまま、私たちの様子を見守っていた。

 ミズキは私の視線の意味を別な風にとったのか、説明するように共通語で言った。

「サカキ様は、名を聞いておられる。……ワ語がわかるわけではないのか?」

「……彼が話しているのが、ワ語なの?」

「おおむね、そうだな」

「……どういうこと?」

 全くもって、状況がわからない。

 ただ、この男の意向で私がここに連れてこられたらしいことだけは、推測ができた。

「私は、テアよ」

 共通語でそう名乗ると、サカキと呼ばれた男は分からなかったのか、問いかけるようにミズキを見る。

「この女の名は、テアです」

 ミズキがワ語でそう通訳した。

「テア……ワの名では、ないのか」

 サカキは低い声でつぶやいて、私の顔をじろじろと見た。

「君は、日本から来たのではないのか」

「……ニホン?」

 思わず、男の言葉を繰り返す。

 聞いたことのある言葉だ。ずきんと頭が痛み、何か思い出せそうで思い出せないような感覚にとらわれる。

 そう、もしかしてこれは、前世でよく聞いた言葉だ。

 私の反応が悪いせいか、サカキという男が、苛立ったようにたずねた。

「ミズキから、異界から来た女がいると聞いた。その猫の名が『ウメ』という、とな」

「……どういうこと?」

 私が眉根を寄せて、ミズキを見ると、ミズキは焦ったように説明した。

「お前は、以前、異界で暮らしていたと言っていただろう。その異界の名前を、猫に付けたと」

「……ウメは、前世の私が飼っていた猫の名前よ」

「前世?」

 今度は、ミズキが眉を寄せる番だった。


 どうやら、それぞれが思い違いをしているらしい、ということだけは、なんとなく分かってきた。

「信じられないかもしれないけど。私、前世の記憶があるの。生まれる前、私はこことは違う異世界で暮らしていた」

 きれいに固められた道路に、四角い巨大な建物、曳く馬もいないのに、すごい速さで走る鉄の車。そうした風景の記憶は、はっきりと残っている。その世界で私は、人の話を聞く仕事をしていた。


 ——そのとき、またずきりと頭が痛んだ。

 ふいに、記憶がよみがえってくる。

 ニホン。そうだ。暮らしていた国の名前が、ニホンだったような、気がする。

「その国の名前が確か、ニホン、だった」

「今、ニホンと言ったな!」

 私の言葉を聞いて、サカキが軽く腰を浮かせて、大きな声をあげた。

 とたんに、勢い込みすぎたのか、むせて激しい咳をし始める。

 ミズキが焦ったようにサカキの側にしゃがみこんで、その背に触れた。

「サカキ様。すみません。俺が勘違いをしていました」

 男は咳をしながら、しわがれた声で叫んだ。

「だが、そいつは、ニホンを知っているようじゃないか!」

「前世の記憶があって、ニホンで暮らしていた、ということのようです」

「……前世?」

 サカキはぽかんと口を開けて、私の顔を見た。

「では……私と同じでは、ないということか」

 男は急に力が抜けたように、椅子に深く沈みこんだ。

 沈黙がおりて、囲炉裏の火がぱちぱちとはぜる音が耳についた。


 私は戸惑ったまま、ミズキにそっとたずねた。 

「ねえ、一体どういうことなの。なぜ私は、ここに連れてこられたの?」

 ミズキは困ったように肩をすくめて、低い声で答えた。

「……お前の話を聞いて、サカキ様と同じではないかと思って、お伝えしたんだよ。そうしたら、今すぐに話をする必要がある、と言われたのだ」

「……彼は、何者なの?」

「サカキ様は——異界から来た、まれびとなんだよ」

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