第16話 山の人の集落
夜闇の中に、馬がブルル……と鼻を鳴らす音が響いた。
不安定で絶え間ない揺れが尻の下に感じられる。
指先の痺れが薄れ、私は徐々に意識がはっきりとしてきていた。揺れのせいか、かがされた香薬のせいか、少し気分が悪く、ずきずきと頭が痛い。
ゆっくりと目を開けると、黒い馬の後頭部と、額に生えた細い角が視界に入った。
森の中を歩いているのか、周囲は木々の影に覆われていて、頭上の空だけが濃い藍色の光をまとっていた。
灯りもない闇の中を、馬は迷いのない足取りで進んでいく。
道はゆるい斜面になっているようだった。
「ここは……?」
私は今の状況がわからなくて、しばらく混乱した。
胸元にぼんやりとした赤い光があって、指先で触れると夜光石のひんやりと固い感触があって、それで私ははっと記憶が戻ってきた。
そうだ。私はトーナの屋敷からの帰りに、山の人に攫われたのだ。
思い出すと、不安と恐怖がじわりと肚の底に湧きだす。
肩越しに振り返ると、後ろにはミズキがいて手綱を握っている。
「目が覚めたか」
ミズキが私に声をかけた。
私はしばらく黙って周囲の様子を確かめてから、低い声で彼に問いただした。
「どこへ連れていくつもり?」
「俺たちの集落へ」
ミズキは短く答えた。
「なぜ? しかも、こんな方法で」
「手荒な真似をしたのは悪かった。危害を加えるつもりはない」
「この時点で、危害ありまくりよ」
本当は怖くて震えそうだったが、私は強気に言い返した。
ミズキは黙ったまま答えない。
私は、今どうするのが最善だろうかと、忙しく思考を巡らせた。
例えば、この馬から飛び降りたら、逃げられるだろうか?
私は、身体を支えるミズキの腕を押し返そうとしたが、思いのほか彼の腕の力は強く、びくりともしなかった。
「逃げようとしないほうがいい。ここはすでに、俺たちの領域だ」
ミズキがそう忠告した。
悔しいが、冷静に考えれば、逃げたとして暗い夜の森の中、帰り道を見つけられそうもないことは、明白だった。
私はだんだんと状況を理解してきて、大人しく連れていかれるしかないようだ、と観念した。少なくとも、今すぐにどうこうされることは、なさそうだった。
「飛び降りたりしないから、手を離して」
私がそう言うと、ミズキの腕の力が緩んだ。
それで、少し圧迫感がやわらいで、私は息をついた。
会話が途切れ、静かな森の気配が耳を打った。
ときどき、道端の藪がカサコソと音を立て、小さな獣の目が闇の中に光った。
山の人の集落と言うのは、山の奥にあるのだろうか。
そういえば、私は山の人のことを何も知らないことに、改めて気づいた。薬草師との取引があるとはいえ、深く立ち入った会話をしたことはない。
街の中でも見かけることはあって、決して珍しい存在ではなかったが、特別に意識したことはなかった。彼らは圧倒的な少数派で、ひっそりと暮らしていたから。
やがて、道が峠を越えたのか平らになり、馬は今までよりも早い足取りで進んでいった。
よく見れば、ミズキの握る手綱は長くゆるんでいて、操作しているようにも見えない。
「馬は、道を知っているの?」
「こいつは賢い。帰り道をわかっている」
「馬にも、名前はないの?」
鼠に名をつけていなかったことを思い出してたずねると、ミズキはやや戸惑ったように答えた。
「……ある」
馬には名があると知って、私は少しだけほっとした。
動物は動物と、割り切っている人たちなのかと思っていたから。
「なんて名前?」
「クロ」
「それは、黒馬だから?」
何の気なしの質問だった。ミズキから反応がなくて、疑問に思って振り返ると、ミズキは驚いたような顔で私を見ていた。
「……やはりワ語がわかるんだな」
彼はおさえたような声でたずねた。
「え?」
「クロ、はワ語で『黒色』という意味だ」
私は目を瞬かせて、彼の言葉を反芻した。
確かに、「クロ」という響きは、共通語ではない。
だけど私はその名を聞いて、すぐにその意味するところがわかったのだ。
なぜか。
私は急にずきりと頭痛を感じて、頭を押さえた。
ふいに記憶がよみがえってくる。そうだ。「クロ」というのは、前世でよく聞く動物の名前だった。
でも、どうして? 彼はそれが山の人の言葉だという。
「やはり、俺の考えは間違っていなかった」
ミズキが低い声で言った。その響きの中には抑えきれない興奮が感じられた。
「どういうこと?」
「話は後だ。集落に着く」
その言葉で前方に視線を戻すと、なだらかな峠道の向こう、森の木々の間に橙色の光がちらちらと揺れた。家の明かりだなと遠目にもわかる。
近づくにつれ、独特な形の屋根がはっきりと見えてくる。棟木が高く、軒が地を這うように低い。街では見かけない形の家だ。
あれが、山の人の集落。
私は緊張して、またがっている鞍の前をつかんだ。
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