第14話 お嬢様の悩み
「テア、待っていたわ!」
私がトーナの部屋に行くと、窓際の椅子に座って本を読んでいたトーナは、華やいだ声をあげた。今日は、ゆったりとした薄緑色の室内着をまとい、肩には白いショールを羽織っている。
トーナは立ち上がって、いそいそと私を窓際の席に案内した。
私がトーナの向かい側に腰を下ろすと、すぐに侍女がお茶の用意をしてもってきてくれた。
「私が淹れるから、下がっていいわ」
トーナが侍女に声をかけて下がらせ、部屋に二人きりになる。
「お父様のところに行っていたの?」
トーナが慣れた手つきで、茶を磁器の湯飲みに注ぎながらたずねた。
部屋にふわりと
「そうなの。もう、緊張した。いつもは父が薬を届けているから」
私は苦笑して、軽く肩をすくめた。
慣れたふりをしているが、熊の胆なんて高級薬を取引するのは、実は初めてなのだ。父が扱っているのを横で何度も見てきたから、間違いはないと思うけれど……。
「テアは偉いわね。私と同じ歳なのに」
「そんなことないよ。見よう見まねでやっているだけ」
トーナが淹れてくれたお茶を遠慮せずいただく。
かぐわしい花の香りが鼻をくすぐり、緊張がほぐれるようだ。
「今日は、お話を聞いてほしいの。いいわよね?」
私が何かたずねるまでもなく、トーナがそう言った。
「もちろん。なんでも話して」
ここ数年、私は定期的に、トーナの話を聞いていた。
ただのお友達のおしゃべりではなくて、トーナの悩みや思いを聞いて、それに私が、感じたことや気づいたことを返す。
そう、まるで前世の私がお仕事としてやっていたようなことだ。
私と話すと、頭と心が整うから、とトーナは言ってくれていた。
「テアって、恋をしたことはある?」
トーナは上品な仕草でお茶を口元に運びながら、私にたずねた。
「と、突然ね」
話を聞く態勢になっていた私は、逆に質問をされてたじろいだ。
昨日のモルスとの出来事が脳裏に浮かんで、どきりとする。
私は平静を装って、曖昧に答えた。
「ないわけではないけど……」
「モルスのこと?」
「ち、違うよ!」
私が声をあげて否定すると、トーナはくすくすと笑った。
「私ね、好きな人がいるの」
トーナが口元に笑みを浮かべながら、そう言った。
それは、初めて聞く話だった。
「お相手は、どんな人?」
「優しい人よ。私よりずっと年上なんだけれど、私をひとりの女性として、扱ってくれるの」
「へえ……」
トーナにそんな思い人がいたなんて、知らなかったな。
もちろん私が、彼女の交友関係をすべて把握しているわけではないけれど。
「もしかして、縁談を了承しないのも、その人がいるから?」
私がたずねると、トーナは苦笑した。
「縁談のこと、お父様から聞いたのね」
「ええ。クロトン様が心配していたわよ」
私がそう言うと、トーナは目をそらして窓の外を眺めた。
トーナの部屋の窓からは、よく整えられ、色とりどりの花が咲く中庭が見えている。
「クロトン様に、その人のことは伝えないの?」
トーナに甘いクロトン様のこと、もしかしたら、その思い人との結婚を了承してくれるかもしれないじゃない。
そう思っての質問だったが、トーナは頭を振った。
「……手の届かない人なの」
トーナはつぶやくように、そう言った。
「どういうこと? その人と思い合っているのではないの?」
「だって、その人は……奥さんがいるもの」
「なるほど……」
「自分でも、そんな人を好きになっても仕方ないと思うわ……でも、やっぱり好きなの」
トーナは自嘲気味にそう言った。
私をそれに対して否定も肯定もせず、ただ相づちを打つ。
「そうなのね」
私はトーナの心理を想像しながら、彼女の話を聞いていた。
そして、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「ええ、どうぞ」
「好きだという気持ちはね、否定することないと思うの。でもね、もし、手の届かない人を好きでいる理由があるとしたら——なんだと思う?」
意地悪な質問かもしれないが、これは、相手の心の奥を引き出すために、あえて投げかける質問だった。
トーナは目を伏せて、しばらく沈黙したあと、小さな声で言った。
「仕方ないって、諦められるから、かな」
「どうして、諦めないといけないの?」
私はさらに質問を重ねる。
「だって……お父様を、悲しませたくないから」
トーナは、父親であるクロトン様の意に沿わぬことは、滅多にしない。それは、家柄と立場を考えてのこともあるだろうけれど、それ以上に、父親をがっかりさせたくない、という気持ちが強いことを、私もよく知っていた。
「トーナは、トーナに好きな人がいたら、お父様が悲しむと思っているの?」
「……そういうわけでは、ないと思うけれど」
トーナはまた、窓の外へ視線をそらした。
「でも、縁談を断ったら、がっかりすると思うの」
「がっかりさせたくないから、手の届かない人を好きになったの?」
「そんなつもりはないけれど……」
そう言いつつも、何か思い当たることがあったのか、トーナは視線を揺らす。
「じゃあ、トーナ自身は縁談のことを聞いて、どんな風に感じている?」
「この家の娘に生まれてしまったのだから、仕方ないわよね」
トーナは口元にかすかな笑みを浮かべて、そう言った。
「仕方ないと考えて、どう感じている?」
私はさらに、彼女の「感情」をたずねる。
こういうとき、人は「思考」にとらわれて、自分の感情を忘れがちになるから。
トーナはしばらく黙ってから、つぶやくように言った。
「寂しい、かな……私は勝手に誰かを好きになったら、いけないのかなって……」
私はトーナの顔を見ながら、彼女の気持ちを拾いあげる言葉を探した。
「トーナは、お父様を愛しているのよね。だから、自分を抑えて、お父様のための選択をしようとしている。だけど、それでは寂しいと感じるのよね」
私がそう言うと、トーナは泣きそうな顔をした。
「そうね、その通りだわ」
「泣きたかったら、泣いていいのよ」
今、トーナの胸にどんな感情が湧いているのか、私にわかるわけではないけれど、大事なのは、トーナがそれを感じることだ。
泣いていいよと言われると、トーナの目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
私は彼女が落ち着くまで、黙って待っていた。
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