第12話 猫の名前
朝、目が覚めると頭が重かった。
昨夜、芝居を観に行った帰り、モルスから思わぬ告白を受けて逃げ出してしまった私は、その後なかなか寝付けなかった。
それでも、今日も店があるからと、私はなんとか布団から起き上がり、身支度を整える。裾の長い上着をはおって腰でひもを結び、長い黒髪は後ろでひとつに結って、くるりとお団子にした。
開店作業をしていると、黒い鼠がやってきて、会計台の上にちょこんと座った。
白猫のウメが気づいて、興味津々で会計台の上に飛び乗り、鼠の匂いを嗅いだ。鼠は「チッ」と鋭く鳴いて、ウメを警戒する。
「ウメ、伝書鼠の仕事を邪魔しちゃダメよ」
私がウメを会計台から抱き下ろすと、ウメは不満そうに鳴いた。
この鼠は、あの「山の人」で薬草師の息子、ミズキの鼠だ。
文には、短くこうあった。
『今から行く』
淡々とした彼らしい、すっとした筆跡。
今日、熊の胆の代金を受け取りに来てもらう約束になっていた。
「そういえば、彼の家はどの辺にあるんだろう」
山の人の多くは、街の外、山の麓や沢沿いに点在する集落で暮らしている。
彼もそこから来るんだろうか。
「ミズキって名前が、不思議よね」
あまり聞かない名だが、なんとなく耳覚えがあるのだ。
薬種棚の整理をしながら、私はふと、それが「前世」で知った言葉だと思い出した。
有名な歌の題名か歌詞かで、似たようなものがあった気がする。たしか、植物の名前だ。
「ま、たまたまでしょうけど」
鼠の言伝では『今から行く』というわりには、ミズキはなかなか姿を現さなかった。
私は店番をしながら、空いている時間でミズキにもらった赤い夜光石の片側に穴を開け、細い革ひもを通した。小ぶりでちょうどよい大きさだったので、首飾りにしようと思ったのだ。日の下ではただの白い石だが、暗い場所でほのかに赤く光るのが、なかなかよい感じで気に入った。
そこへ、店先の日よけ暖簾の後ろから、細身の人影が現れた。
「どうも」
相変わらず、不愛想な挨拶をしたのはミズキだ。
「いらっしゃい」
私は立ち上がって、彼を奥の座敷に案内した。
「これ、昨日の熊の胆のお代ね」
私は布に包んだ50万エン分の金貨をミズキに差し出した。
ミズキは中を確かめて額を数えうなずいた。
「確かに」
金貨を布で包みなおすと、素早く懐にしまう。
大金を前にしても、その表情はほとんど動かない。
なんというか、本当に感情が表に出ない人だな。
お客さん好きのウメがまた寄ってきて、ミズキの膝に頭をこすりつけた。
ミズキは触るでもなく、追い払うでもなく、白猫の様子をじっと見ている。
「ウメ、しつこいよ」
彼の黒い服に、白い毛がついてしまう。
私がウメを追いやろうとしていると、ミズキが口を開いた。
「なあ。『ウメ』って、どういう意味なんだ?」
彼は探るような目で私を見た。
特に意味はない、といつも通り答えようとして、私はふと迷った。
ウメとミズキ。どちらも、前世で暮らしていた世界の言葉だ。
偶然だとは思うけれど、とても気になる一致。
もしかしたら、彼もまた、あちらの世界を知っている人なのかもしれない。
私は直感的に思った。
だから、本当のことを答えた。
「『ウメ』はね、花の名前よ」
彼はどう反応するのか。私はドキドキして、彼の様子を見守った。
「……共通語では、聞いたことがないな」
「そうね。共通語ではないわね」
ミズキは、眉間にしわを寄せて、私を見てくる。
「もしかして、お前……ワ語がわかるのか?」
「ワ語?」
聞きなれない言葉に、私は首を傾げた。
「ワの言葉で、『ウメ』は神話上の花の名前だ。霊界に咲く、香り高い花だと言われている」
予想と反する彼の言葉に、私は戸惑った。
「ちょっと待って。ワ語って、何?」
ミズキは眉間のしわを深めた。
「俺たちの言葉だ」
「……山の人の言葉?」
ミズキはうなずいた。
「山の人、というのは、
身近なようで、ほとんど交流のない異民族である彼らのことを、私はよく知らなかった。
共通語とは違う言葉を話すことは、知っていたが……。
「じゃあ、『ミズキ』というあなたの名前も……ワの言葉?」
「もちろん。木の名前から来ている」
「そうなんだ……」
前世の記憶にある、あの異世界の言葉では、なかったのか。
「どうやら、ワ語は知らないようだな」
私はふるふると首を振った。
「一言も知らない」
「では、『ウメ』という猫の名は、どうやってつけた?」
ミズキが白猫へ視線をやって、たずねる。
私は息を吸い込んで、言葉を探した。
本当のことを、言ってしまってもいいだろうか。
「もしかしたら、信じられないかもしれないけど……記憶の中の、言葉なの」
「……どういうことだ?」
ミズキは怪訝そうに眉を寄せた。
「全部覚えているわけじゃないけど……記憶の中の私は、ここではない世界で、暮らしていたの」
ミズキは驚いたような顔をして、私を見返した。
その顔を見て、私は本当のことを話したのを後悔した。
そうよね。普通は、信じられないよね。
「ごめん、忘れて。冗談よ」
私はおどけたように笑った。
ちょうど、店に客がやってきて、「すみませーん」と私を呼んだから、これ幸いと立ち上がる。
「それじゃ、また珍しい生薬がとれたら、よろしくね」
「……ああ」
ミズキは眉間にしわを寄せたまま、まだ何か聞きたそうにしていたが、客の応対に忙しくなった私を見て、諦めてそのまま帰っていった。
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