第11話 見えない感情
「今日の芝居はよかったな」
「トーナのおかげで、いい席で観られたしね!」
私とモルスは、影絵芝居の話で盛り上がりながら、のんびりと夜道を歩いた。
ほおに触れる風がぬるく、やわらかい。かすかに、甘い花の香りが混じっていた。
春の夜を感じる風だ。
夜の散歩を楽しむ恋人ともたまにすれ違い、自分たちもきっとそう見えているんだろうなと思うと、少しばかり、落ち着かない気分になる。
楽しそうにしゃべるモルスの横顔を、私はこっそり眺めた。
私よりずっと背が高くて、並んでいると、軽く見上げるような形になる。
その薄く髭のはえたあごを眺めながら、知らない間に、こいつも大人の男になっていたんだよな、と思う。
「テアは、どの場面がよかったと思う?」
モルスの質問に、ぼんやりしていた私はあわてて意識をこの場に戻した。
「悪魔に騙されかけるところでは、ハラハラしたよね」
「まれびとの賢者様がカッコいいよな。……そういえば、今さらだけど『まれびと』ってなんだ?」
「異界から来た人、ってことよね」
「異界って、天国のことか? それとも、どこかに別の世界があるのか」
どこかにある「別の世界」。その言葉に、私はどきりとする。
この世界に生まれ落ちる前、私はその「別の世界」で生きていた——のはたぶん、夢ではなくて、確かな記憶だと思っている。
四角い建物の並ぶ街で、人の話を聞く仕事をしていた。
そのことを話したい気持ちが湧いてきたが、私は興味がないフリをして肩をすくめた。
「さあ、物語の話だしね」
「だけど、異世界があったらおもしろいよな」
「あるんじゃない。ただ、行き方がわからないだけで」
だって、私はそこから来たんだもの。
そう胸の中で付け足した。
そんな話をしていうちに、私の家に着いた。
扉を開けると、留守番をしていた白猫のウメが、「あおーん」と鳴きながら出てきた。
動物好きなモルスは、早速しゃがみこんで、ウメの背を撫でる。
「そういえば、猫は異世界にも行き来できるんだっけ?」
「世界をまたがって生きるって、言うものね」
「お前んちの猫も、案外、異世界から来たのかもな」
「まさか」
私もしゃがみこんで、ウメの前に指を出すと、ウメは冷たい鼻でちょんと触れる。
緑色の目が、暗い中ぼんやりと光る。
猫は言葉を話さないから、その考えはわからないけれど、この目は私たちの知らないものを、見ているのかもしれない。
「……なあ、テア」
「なに?」
モルスに呼びかけられて顔を上げると、猫と遊んでいたはずのモルスが、私の方をまっすぐ見ていて、どきりとする。
モルスはしばらくためらった後、思い切ったようにたずねた。
「なんで俺のことを避けるんだ?」
その問いかけに、思わず目が泳ぐ。
「何よ、急に」
「今日の芝居も、俺が誘ったとき断っただろ」
「……避けてるわけじゃないよ」
「避けてるだろ」
モルスは珍しく、はっきりとそう指摘した。
「そんなことないよ。じゃあね。もう遅いし」
私はこの会話を終わらせようとしたが、モルスが私の肩をつかんだので、びくりとして口をつぐんだ。
モルスは真剣な声で言った。
「俺さ、お前のこと、好きなんだよ。……わかってると思うけどさ」
私は反射的に、モルスの手を振り払った。
その直後に、しまったと気づくが、遅かった。
モルスは力なく手を下ろし、申し訳なさそうな顔をした。
「……ごめん」
耐えられなくて、私はモルスをその場に置いて、家の中へ逃げ込み、階段を駆け上って、二階の自分の部屋に飛び込んだ。
閉めた扉にもたれかかって、そのまま座りこむ。
心臓がどきどきしているのは、走ったせいばかりではなさそうだ。
私は膝を抱えて座り、大きなため息をついた。
「モルス、絶対に傷ついたよな……」
彼が私に好意を持っているらしいことは、前から知っていた。
私だって、モルスのことは嫌いではないし、むしろ一番心を許している男友達だと自認している。
それなのに、彼が近づいてくるのが、なんとなく怖いのだ。
理由はない。ごく感覚的なこと。
そして、「なんとなく嫌な感じ」がするとき、そこには「避けたい感情」があるのだと、私は前世の経験的に知っていた。
遠い記憶をたどって、そんなとき、「前世の私」がどんな風な質問を投げかけたか、思い出そうとする。
「……彼に近づいたら、どうなってしまうと思うの?」
私はそう、自分に問いかけた。
ゆっくりと、自分の中の感情を探る。
直感的に浮かんだのは「気楽でいられない」ということ。
そして、「傷つきたくない」ということ。
「どうして傷つくと思うの?」
さらに質問を重ねる。
……どうしてだろうな。
むしろ、傷つけているのは私の方じゃないかな。
私は長いため息をついた。
「自分のことって、わからないものね」
私は自分の鼠を呼び、短い手紙を書いて、モルスに送った。
『さっきはごめん。モルスの気持ちは嬉しいけど、私は自分の気持ちがわからない』
灰色の鼠はすぐに、返事を持ってちょろちょろと戻ってきた。
『今はそれでもいいよ。おやすみ』
モルスの優しさがかえって辛くて、私は腕の中に顔を伏せた。
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