第4話 蒸し風呂のおしゃべり

 番台の女将とのおしゃべりを切り上げて、私は女湯の暖簾をくぐった。

 

 脱衣所には、荷物を置く木の棚があって、何人かの女性が着替えていた。

 私は手早く衣服をぬぐと、桶に手拭いをたずさえて、浴場の引き戸を開いた。

 

 浴場は広めの部屋になっていて、真ん中にはござが敷かれていた。ござの上には、身体をほんのり赤く火照らせた人が、思い思いに座って休んでいる。

 一方の壁際には湯を張った木の水槽がいくつか並んでおり、その近くに扉があって、蒸し風呂へ続いている。折しも、蒸し風呂の扉が開いて、もうもうとした湯気と共に「あー、熱い熱い」と言いながら人が出てきた。全身汗だくだ。


 風呂好きな私は、ときどき風呂屋の蒸し風呂で温まるのを、日常の楽しみにしていた。前世でも蒸し風呂があって『さうな』と呼ばれていたっけ。

 何しろ、家には風呂がないからね。基本は、手拭いで体をぬぐったり、ときどき湯を沸かしてたらいに張って、体を清めるくらい。

 

 私は、まずは水槽のぬるい湯を桶で汲んで、頭と体を洗った。

 それが終わると、長い黒髪をまとめて、くるりと頭の上でお団子にする。 

 さあ、いざ蒸し風呂へ。


 蒸し風呂の扉を開くと、熱い蒸気と薬草の匂いが押し寄せた。 

 狭い小部屋になった蒸し風呂は、裏に窯があって、そこで沸かした熱湯の蒸気を引き込んで、部屋に充満させているのだ。

 蒸気の噴出口に薬草を入れた布袋が置いてあって、蒸された薬草から香気と薬効成分が出てくるという仕組み。

 

 壁際に据え付けられた長椅子には、二人の先客がいた。

 私は空いているところに腰をかけ、目を閉じてふうっと長い息を吐く。

 熱い蒸気に包まれて、すぐに肌が汗ばんでくる。

「あー、最高。生き返る……」

 全身の力が抜けて、頭の中まですうっと溶けてくる。

 これこれ。この感覚が好きなのよね。


 蒸し風呂の中は暗くて、目が慣れるとぼんやり、お互いの姿が見えるくらい。

 先客はふたりの若い女性で、ひそひそと話をしていた。

 聞くつもりはなくとも、その話が耳に入ってきた。


「……返事がこなくなって、もう一ヶ月なの」

「前もそんなこと言ってなかった?」

「……うん。でもそのときは、三週間くらいで戻ってきたもん」

「彼はどうして、連絡をしてこなかったの?」

「……仕事が忙しかったって」


 ふたりの女性は、そんな会話をしていた。

 どうやら片方の女性が、友だちに恋愛相談をしているみたい。察するに、彼氏がすぐに音信不通になるタイプのようだ。

 ちょっと気になる内容で、ついつい耳を傾けてしまう。


「その彼、領主様のお屋敷で働いてるんだっけ?」

「うん、そうなの。だから、忙しいのは本当だと思うの」

「どうかね~。そんないい仕事してたらモテそうだし、他に女がいるんじゃないの?」

「……でも、彼は私との将来も考えてるって、言ってくれてるもの」

「そんなの、誰にでも言ってるんじゃない?」

 お友達はなかなか辛辣だ。

 まあ、もしその男が遊び人タイプなら、残念ながらそういうパターンもあるかもしれない。


「だけど、彼は苦労人なのよ。ご両親も亡くなっていて。すごく努力して、今の仕事を得て。だから、私が支えてあげたいの」

「あんたはほんと、いい子よね」

 健気なことを言う女性に対し、友達は半ば呆れ、半ば心配するような声で、そんな感想をもらす。


 うーん。だんだんと、様子が見えてきた。

 辛い生い立ちで頑張ってきた男と、それを支える女。

 そう説明するといい話のようだけど、これはちょっと、泥沼になりかねないパターンね。

 私はその女性に話しかけたくなって、うずうずしてくる。

 急に割り込んだら悪いかな。


「あー、熱い。のぼせてきたから、先に出るね」

「私はもうちょっと、入ってるわ」

 お友達が立ち上がって、蒸し風呂を一足先に出ていった。

 恋に悩む女性の方は、長椅子の上で膝を抱えて、目を閉じている。

 

 おしゃべりが止んで、狭い蒸し風呂の中には沈黙が流れた。

 私は蒸気と汗が混じって水滴の流れ落ちる顔を、手のひらで撫でた。

 それから、意を決して、思い切って女性に話しかけた。

「あのー、さっきの話、聞いちゃったんだけど。その彼氏さんは、普段一緒にいるときは、どんな感じなの?」

「えっ? 彼の話?」

 女性はびっくりしたように私の顔を見た。

「あ、ごめんね。急に聞いちゃって。どうしても、気になって」

「いえ、私たちが、大きな声で話していたから……その彼、普段は優しいんです。ただ、急に連絡が取れなくなる時があって」

「それって、一緒に楽しい時間を過ごしたすぐ後だったりしない?」

 私がそうたずねると、女性はパチパチと瞬きをした後に、「そうなんですよ!」と前のめりぎみに肯定した。

「今回もそうなんです。何日か一緒に過ごす時間が取れて、すごく幸せだったし、彼も私といると『安らぐ』って言ってくれて。でも、その翌週から急に、そっけなくなったんです……もう、訳がわからなくて」

 女性は涙ぐんできたようで、ごまかすように顔を背けて、手拭いで目元を拭いた。


 あー、やっぱりそういうことね。

 私は納得がいって、ひとりうなずく。

 その彼は、いわゆる「回避型」というか、仲良くなると失うのが怖くなって、逃げ出すタイプなのかも。両親ともに亡くなっている、という彼の生い立ちを考えても、きっとそうなのだろう。

 私は前世からの経験と記憶をもとに、そう理解した。

 好きだからこそ避ける、というややこしい心理もあるのだ。


「その彼、きっとあなたのこと、大事に思っていると思うよ」

「……本当ですか? 伝書鼠を出しても、返事もくれないのに」

 女性は信じられなさそうに、反論してくる。

「でも、今まで音信不通になっても、思い出したころに、ひょっこりあなたのところに戻ってきたんでしょ?」

「……はい。そうですね」

「あなたは、そんな彼でも、好きなのよね」

「……はい」

 彼女はこくりとうなずいた。

 傍から見たら、そんな男やめておけ、と言いたくなるところだが、人の気持ちは理屈で動かないもの。

 

 私は最後に一言だけ、女性に伝えておくことにした。

「その彼、きっと追いかけると逃げるタイプだから。今は放っておいて、あなたが自分の好きなことをして、自分の生活を楽しんでいたら、案外向こうから戻ってくるかもよ」

「……そうなんでしょうか」

 女性は納得したような、していないような返事だったが、私もそれ以上は深入りしないようにした。

 たった一言のアドバイスで変わるほど、人の心は簡単じゃないものね。


 この人が、少しでも幸せになりますように。

 私はそんな願いを残して、だいぶ熱くなってきた蒸し風呂から出ることにした。

 扉を開くと、すうっと涼しい空気が体を包み、呼吸が楽になる。

 

 外で休んで、整えて、それからもう一度入ろう。

 蒸し風呂の醍醐味はこれからなのよね。


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