第3話 「草の湯」の女将
夕食を早めに終えた私は、草を編んだサンダルをひっかけ、桶に手拭いとヘチマたわしを入れて、近所の風呂屋へ向かった。
この時間帯は、まだ出歩く人も多くて、石畳の通りは賑わっていた。
通りの両脇には、夜光石を入れた燈明が一定間隔で置かれていて、道をぼんやりと照らしている。
炎ほど明るくはないけれど、緑色の光がやわらかく幻想的で、これ目当てで訪れる旅人がいるくらい、この町の風物詩になっている。
夜光石は、昼の光を吸って、夜に吐き出す特別な石で、この地域の特産品だ。父が異国へ薬種の買い付けにいくときにも、この石を交易品として持っていく。
少し歩いたところで、この時間でも人の出入りがある店が見えてきて、近づくと薬草の匂いが鼻をくすぐった。
すっと爽やかな柑橘草の香りと、石菖の青っぽい匂い。
おなじみの、薬草風呂の匂いだ。
「ああ、この匂いだけで癒される……」
石菖の葉の絵をあしらった看板には「草の湯」の文字。
私は、大きく「ゆ」と染め抜かれた暖簾をくぐった。
入り口を入ってすぐ、靴を脱ぐ土間があって、その真正面に番台があった。そこから左右に色違いの暖簾がかかっており、右が男湯、左が女湯になっている。
「あら、テア。いらっしゃい」
番台の中に座っている初老の女が、目尻に皺を寄せ、やさしく笑って出迎えた。
「女将さん、こんばんは。新しい薬草はどう?」
「この匂いの通り。香りだちがよくて、疲れがとれると好評よ」
この風呂屋「草の湯」はうちのお得意さまだ。
薬用蒸し風呂に使う薬草を、昔からうちで仕入れてくれる。
子どもの頃はよく、「草の湯さんに薬を届けてきて」と親に言いつけられて、ひとっ走り薬草の配達をしていたものだ。
だから、女将さんとは昔からの顔なじみ。
結い上げた髪に白髪が増えて、目じりの皺が深くなってきているあたりに、年月の経過を感じる。
私が小銭を数枚、番台の上に置いたとき、バタバタと奥から足音が聞こえて、まだあどけなさの残る少女が、薬草籠を腕に抱えて走ってきた。
「代えの薬草持ってきたよ」
「そこに置いといてちょうだい」
「火はさっき、薪を足しといたよ!」
「ありがとう」
少女がバタバタと裏の方へ消えると、女将さんは疲れたようにため息をついた。
「女将さん、お疲れ?」
見かねて私が声をかけると、彼女は苦笑混じりの笑みを見せた。
「窯番が辞めちゃってねえ。てんやわんやなのよ」
女将さんが疲れたようにぼやいた。
浴場の裏には薪で火を焚き、湯を沸かす窯があって、その火の番は風呂屋の大事な役割だ。窯番をする役の少年がいたのだが、最近辞めて、田舎に帰ってしまったらしい。
ちなみにさっきの少女は、女将の孫娘だ。人手が足りないので、まだ小さいのにお手伝いをしているんだな。偉いな。
「最近の子は、我慢が足りないのよね」
女将の言葉に、自分もどちらかというと「最近の子」に含まれる年齢な私は、返事に困って苦笑い。辞めちゃった窯番の少年も十九歳あたり、私のひとつ年下くらいだったしな。
よく聞く「最近の若者」という枕詞。なんなら、前世でも聞いた記憶がある。どの世界でも同じなんだなと、逆に感心してしまう。
「店を閉めようかと、ときどき思うのよね。私ももう、歳だし」
女将さんの口からは、そんな弱音まで出てきた。
「草の湯さんがなくなってしまったら、私、困ります。ここの薬草風呂は、私の癒しなの」
本気でそう思っている私は、ぐいっと身を乗り出して力説する。
何を隠そう、私は大の風呂好きだ。
しょっちゅう通うので、父親には無駄遣いだと怒られるが、そこは譲れない。
「ありがとう、テア。そう言ってもらえると、嬉しいわ」
そう言う女将さんの笑みには、あまり力がない。
「女将さん、本当に疲れてるみたいね」
私はちょっと心配になってきた。
もともと女将は、はつらつとして明るい人のなのに。
こんなに愚痴っぽいのは珍しい。
「そうね。去年旦那も死んで、それからどっと歳をとった気がするわ」
「おひとりで草の湯を切り盛りされてますもんね」
「息子夫婦も出稼ぎで、遠くに行ってしまったし……」
色々重なって、心労が溜まっているのだろう。
「女将さん、しばらくお休みをとってはどう?」
私はそう言ってみたが、女将は頭を振った。
「でも、店もあるから……」
責任感が強い人あるある。
休むのが下手な人って、いるのよね。
「お風呂をしばらく休んだって、町の人も死にはしませんよ」
私は指をぴっと立てて、女将に言った。
「それは、そうかもしれないけれど……」
「女将が倒れでもしたら、元も子もないです。結局、風呂屋も閉めることになりますよ。それなら、今休んだって同じでしょ」
私の言い草に、女将は目を丸くしてから、ふふっと笑った。
「本当ね。私、店があるから休んじゃダメって、思ってたけれど」
「女将の元気な顔を見られたほう、私たちも嬉しいですよ」
ここぞとばかりに、私はそう言い添える。
疲れていると、人はどうしても、暗い方にばかり物事を考えてしまう。
休むのは大事。本当に。
ちょうどその時、他の客が入ってきたので、私たちは話を切り上げた。
「ありがとうね、テア」
女将さんが小声で礼を言ってくれたので、私も「どういたしまして」ととびきりの笑顔を返した。
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