第1話 薬屋の娘
記憶の中か、夢の中か。
かつての「私」は、巨大な四角い建物が立ち並び、鉄の馬が黒い道を疾走する街で、人の話を聞いてお金をいただく『かうんせらー』という仕事をしていた。
悩みに満ちた世界。
多くの人が、「話を聞いてほしい」と求めていた。
だから「私」は、その悩みがなくなるのを願って、たくさんの人と話をした。
そんな人生の最期がどうだったか、それはあまり覚えていない。
暗い影のような靄がかかっていて、どうしても思い出せないのだ。
***
薄暗い店の中に風が吹き込んで、軒先につるした新しい薬草の青臭い匂いが鼻をくすぐった。
その匂いに気づいて、会計台のところで客の長い話を聞いていた私は、ひょいと顔をあげて外を見た。
紺色に白字で『各地の薬種あり〼』と染め抜いたのぼりが風に揺れ、その下の日が当たる場所には、白猫が一匹、気持ちよさそうに寝ている。
店の面した石畳の大通りを、かぽ、かぽと蹄の音も高らかに、短い角の生えた赤馬が、車を曳いて通り過ぎていった。
陽射し明るい、のどかな春の昼下がりだ。
あーあ、こんないいお天気なのに。
暗い店に引きこもって、何やってるんだろ。
私は心の中でぼやいた。
ちなみに店が暗いのは、光にさらされると薬種の薬効が落ちるから。
特に、直射日光はダメ。だから店の入り口には、日よけの藍染の暖簾が張ってある。
もちろん窓もない。
おかげで店内は、一日中薄暗いのだ。
「……絶対に怪しいと思うのよ!」
その言葉で、私は目の前でしゃべり続ける中年女性に意識を戻した。
薬を買いにきた客なのだが、世間話からいつの間にか、彼女の悩み相談になっていた。今は、旦那さんのことを愚痴っている。
ちなみに、常連ではなくて、今日初めて来た客だ。
「どう怪しいんですか?」
「それが、いつもと行動が違うのよ!」
女が握った拳を会計台にだんっと叩きつけたから、かごに積み上げてある安売りの薬草袋がいくつか、ぱさりと床に落ちた。
私は落ちた品物を拾いあげながら、静かに聞き返した。
「どう違うんですか?」
「今までだったら、髪はぼさぼさ、服もツギハギだらけ。繕うのはもちろん、あたしがやってるんだけどね。それが最近、いい匂いのする香油で髪をいじったり、新しい服を買ったりしてるのよ!? たいしたお給金でもないくせに!!」
女は早口でまくしたてる。怒りのこもった口調だ。
私はその表情を見ながら、彼女の「感情」を探った。
「それは気になりますね」
私が共感を示すと、女は大袈裟なくらいに首を縦に振って、同調した。
「そうなのよ! 絶対に女がいるに違いないと、睨んでいるの」
「でも、まだ証拠があるわけじゃないんでしょう?」
そう指摘すると、女は大きく手を振った。
「間違いないわ。勘でわかる」
まあ確かに、こういうときの女の勘は、けっこう当たるしね。
だからこそ、あれこれ考えてしまうのだろう。
不安は不安を呼ぶ。
きっと彼女は、不安だからこそ、こうして怒っているのだろう。
「考えるだけで、不安になりますよね」
私がそう言うと、女は顔をしかめた。
「不安? まさか! 腹が立つったらありゃしない! あたしは、こんなに——」
女の語気が弱まって、自信なさげに目を泳がせた。
私はそんな彼女に、そっと言葉をかけた。
「誰だって不安になりますよ」
女は長いため息をついた。
「……まあ、そうね。考えると、ご飯ものどを通らなくて。昨夜も丼二杯しか食べられなかったわ」
ええっと。ご飯を丼二杯は十分に食べているのでは?
私は思わず、女のむちっとした腕や腹周りを見て、納得した。
普段はきっと、四杯くらい食べているのだろう。
その後彼女は、自分がいかに、家族の身の回りの世話をしているのか、そして、夫がいかに無頓着なのかを長々と語った。
私はそれを、うんうん、と相づちを打ちながら聞く。
きっと彼女は、そうした自分の献身を家族に認めてもらいたいし、でもそう感じられなくて、ちくちくと旦那さんを責めてしまうんだろうな。
本当は、色々と突っ込みたいこともあったが、私はそれを我慢した。
真剣に聞きはじめると、一刻じゃ足りないし、そんなことをしたって、一銭の得にもならないからね。
ひとしきり愚痴を話してすっきりしたのか、女は「あら、ごめんなさいね。話し過ぎたわね」と我に返ったように謝った。
「いえいえ。不安な気持ちは、溜めるとよくないので」
私はにっこり笑ってそう返した。
「近いうちにゆっくりと、旦那さんとお話する時間をとられると、よいかもしれませんね」
「きっと会話にならないわよ」
彼女はあきらめたように、ため息をついた。
「まずは素直な気持ちを、伝えてみては? 言わないと、伝わりませんから」
そして最後に、私は指をぴっと立てて、付け加えた。
「あと、浮気の証拠探しは、しないほうがいいですよ」
「……どうして?」
「意味がありませんから。離縁したいなら、別ですけれど」
「離縁なんて、そこまでは、まだ」
彼女はその言葉の響きに、どきりとしたように口ごもった。
私は、女の本来の用件であった薬草を小袋につめて渡し、代金を受け取る。
この薬は、最近胃の調子が悪い旦那さんのためなんだとか。
なんだかんだ、旦那さんのことが好きなんだろうな。ということは、言わないでおく。言ったら全力で否定するに違いない。
「小鍋一杯の湯で煎じてください」
「ええ、わかったわ」
私が「ありがとうございました」と礼を言うと、女の方が慌てたように手を振った。
「こちらこそ、ありがとうね。あなた、若いのにしっかりしているわね。うちの娘にも、見習ってほしいわ」
「そんなことないですよ。父にはいつも『覚えが悪い』って怒られます」
私は店の入り口で女を見送って、その姿が見えなくなってから、ふうと息をついた。
「あーあ。また話を聞いちゃった」
今日で三人目である。
初対面の人からも、なぜかあんな風に、身の上相談をされてしまうのだ。
無意識で話を引き出しているのかもしれない。
「職業病だなあ」
といっても、今の職業じゃなくって、前世の職業だけれど。
今の私が生まれる前、「私」は人の話を聞くお仕事をしていたから。
目を覚ました白猫が「あおーん」と甘い声で鳴いて、私の足に体をすりつけた。
「ねえ、ウメ。困っちゃうね」
私が白猫の背をなでると、ウメは私のつぶやきに返事をするように「あおん」と鳴いた。
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