第41話 護符を配る

 李医師の両腕にはいつの間にか赤い小花がいくつも咲いていた。


「李医師!」


「虫除け汁は服についていたからな。ま、こうなるさ。それより、ちゃんと飯は食ったか。病人に食わせて、お前はろくに食べてないんだろう」


「私は元気だから」


「食っとけ。俺が倒れたらお前に看病してもらうんだから」


「あ、うん……」


「もうじき日没だ。半刻経ったら封鎖柵のところに行こう。衛士が食糧を持ってくる。謝礼はここに入っている半分を渡す」李医師は巾着を小月に見せた。李医師の全財産だという。「他に必要なものがあればその時に頼むつもりだ。何か思いつく物はあるか」


 とっさには思い浮かばず、首を左右に振った。


 診療所に収容されている者は男女合わせて百人を優に超える。小月達が南街区に入ってから三刻近くが経過していた。その間に死んだのは手遅れだった三人。新たに発症した者が二人、柵の外から投げ込まれた者が五人。

 病人は増えるばかりだ。

 だが希望はある。李医師の手順を見よう見まねで覚えた小月の看護を、やはり見よう見まねで覚えた幾人かが手伝ってくれている。

 そのうちの一人などは『何をしたらいいのかわからなかった時にはどうせ死ぬのだからと自暴自棄になったけれど、小月さんを手伝うことで目の前が明るくなった』と言ってくれた。自分のような小娘でも人に希望を与えられるのだと教えられて、小月は涙ぐみそうにさえなった。

 それもこれも嘘の上に築かれた信頼ではあるけれど。


「小月、時間だ」


 李医師が迎えに来た。

 餃子屋の二徹と連れだって封鎖柵に向かうと、柵の向こう側から潜めた声が聞こえた。


「おい、今から投げ込むぞ。受け取れ」


 麻袋に入った穀物が三つ、どさりどさりと地面を揺らす。続けて漏斗が降ってくる。その後に、紐を括りつけた瓶がそろりそろりと降ろされる。


「中身は油だ」


「油?」


「今にも雨が降りそうだろ」空を見あげたが暗くてもう見えない。ただごろごろと不気味な音が聞こえてくる。「火葬用に使えと隊長からの差し入れだ。上等な油だぞ。ありがたく使え。それとこれも」


 柵の上に放物線を描いて紐で結んだ紙束が投げ入れられた。


「これは?」


 文字とも文様とも図柄ともわからない何かが描きこまれた紙片が数十枚。


「疫病退散の護符だ。名のある祈祷師のものだそうだ。各家に配ってやれ」


 日中に見たお札とは異なっている。いったいどれほどの祈祷師や呪術師が商売をしているのだろうか。


「……隊長に感謝をお伝えください」


「それから耳寄りな情報を教えてやる。近いうちに皇帝陛下が疫病除けの護摩祈願を催行されるらしい。名だたる高僧や術師が呼ばれて国の威信をかけて盛大に執り行われるそうだ」


「護摩祈願?」


「民草を想う陛下の聖恩だ。ありがたいと思え」


「……ご聖恩に感謝いたします」


 衛士の口ぶりからは護摩祈願さえ行われれば流行り病はすぐに収まるとでも考えているようだ。

 皇帝が行う祈願。怪しい呪術師が蔓延る市井の状況は、民衆が抱いている不安や恐怖の現れだ。国の威信をかけて行われる祈願に誰もが期待するだろう。

 だがもし期待した効果がなかったら。疫病がさらなる猛威をふるったとしたら。

 皇帝の権威は失墜するだろう。期待が大きければ大きいだけ民衆の不満は膨らむだろう。


「しっかりしろ、小月。疲れたのなら休め」


 李医師に呼びかけられて小月ははっと顔をあげた。


「すいません、李医師。この護符を配りたいので早速行ってきます!」


「え、ああ、無理すんな」


 南街区に閉じ込められた住人のうち、小月達に協力的なのは半数ほどである。残りの半数は自宅の戸を閉め切って引きこもっている。餃子屋の二徹によれば、食べ物を隠し持っている家が多いらしい。災厄が過ぎ去るのをただ祈って待っているのだろう。もし疫病を広げている犯人が蚊だとしたら、隙間だらけの粗末な家では防ぐことは出来ない。

 なんとか説得して、せめて虫除けの汁とぼうふら対策を講じたい。


「帰っておくれ。うちは協力する気はないから」


「はい、強制はできません。でもちょっとだけ戸を開けてもらえませんか。疫病封じに特効がある護符を配っています」


「……ちょっとだけだよ」


 わずかに開いた戸の隙間から、小月は護符と共に除虫草の一束を差し入れる。


「この草の絞り汁を体にまとうと、てきめんの効果があるんです。有名な術師から伝授されました。あ、待ってください。ここが重要です。疫病は蚊の背中に乗ってやってくるんだそうです。だから……」


 効果的な『まじない』の方法を一軒一軒教えて歩く。嘘をつくことは心苦しい。詐欺師になった気分だ。

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