第40話 仮説

 父親の必死さが常ならぬものなのか、末娘らしい幼い少女が涙目で小月の裙に縋りつく。小月は少女を支えてその場に座った。


「顔をあげてください」


「お願いします! 俺達家族だけでも外に出してくれ」


 神仏に祈るように父親は手を合わせる。


「勝手なこと言ってるんじゃねーぞ」孟兄が砂を蹴った。「うちだって誰も感染はしてねえ。だが隣近所が困っていたら助けるのが人の情だろうが」


「他人に情をかけて家族を犠牲にするなど、愚か者がすることだ!」父親が怒鳴り返す。


「なんだと! 俺達が愚かだっていうのか!」


 孟兄弟と隣家の声は小月の耳には届いていなかった。彼女の頭は一つの思考に占められていたからだ。


 初夏から秋まで猛威を振るう疫病。除虫草が繁茂する場所では病人はいまい。食べ物や飲み物が原因ではない。水質や土質でもない。栄の町からじわじわと範囲を広げていきながら、人から人へ直接感染しない。疫病はどうやって伝染するのか。まるで空から降ってくる雨のように誰にでも降り注ぐ。


 小月は空を見上げた。雨雲が近づいている。

 頬を掠めるようにして虫が飛んでいった。


 もしかしたら。

 一つの仮説が成り立つ。

 そんなことがありうるのか、素人には検討する知識も知見もない。だが一度ついた火は小月の呼吸を止めるほど胸中で燃えあがった。

 ともかく、確認しなければ。


「すみませんが家の中を見せてもらえませんか」


 水瓶を覗いた。綺麗な水ではないが、ぼうふらはいない。虫除け効果のある草が近くに繁殖しているおかげだろう。


「家族の中に蚊に刺されやすい人はいますか? 今年になって刺されたことは?」


「……いや、誰も……なあ」


「そういえばここに越して来てから一度もないんじゃないかしら」夫婦は顔を見合わせた。


「せーんせ!」


 草を掻き分けて、子供が飛び出した。小月の背に貼りつく。わらわらと五人ほどが集まってきた。


「おい、何してるんだ!」孟兄が子供を引きはがす。「すまんな、先生、親が倒れちまって寂しいんだよ」


「この子達はよくここで遊んでいるの?」


「近所のガキ共なんだが、そうだなあ、親が働きに行ってる間は俺たちが預かってたんだ」


「この子達は元気ね」子供の手を取り、腕や足に虫刺されの痕がないことを確認する。「うん、わかった気がする」


 小月は隣家の家族に向き直った。


「正直に言います。私には貴方達家族を外に出す力はありません。ですが封鎖を解く方法は知っています」


「それは……?」


「唯一の方法、それは流行病に勝つことです!」


「そんなこと……。病は皇帝陛下の不徳のせいだと噂されてるんですよ。皇帝が代わらない限り……」


 小月は首を左右に振った。「流行り病は止められます。そうすれば封鎖は解かれます」 


「……でも」


「流行り病をやっつけましょう! みんなで!」


「……祈祷でもするのかい」


「祈祷?」思わず口元が緩んだ。「私は医師です。祈祷はしません。でも見方によっては祈祷みたいなものかもしれません。だって私にもちゃんとした説明ができないんですもの。絶対に効果があるかもまだわからない。でも試してみましょう」


 不可解な表情の夫婦に除虫草を握らせる。


「この草から絞り汁を作るんです。それを体に塗ると疫鬼は寄ってきません。それから水を綺麗に保つこと。典弘さんが井戸水を濾過して沸かしてくれているので安心ですが──」


「まかしとけ!」典弘が胸を叩く。


「湯冷ましは放置しておくとすぐに傷みます。保管する時は銅製品を中に入れてください。貯水桶や溜池には金魚を入れてください。彼らが疫病を食べてくれます」


 そこまで聞いていた父親はそろりそろりと顔をあげた。


「金魚は高級なのでここでは難しいかと。代わりに他の小魚でもいいでしょうか。ゲンゴロウなども」


 小月は思わず微笑んだ。


 傍らの母親も意味がわかったのだろう、笑顔で頷いた。「子供らにはヤモリやカエルなどを殺さないように言い聞かせますね。病気のもとを食べてくれるのならば」


「意味がよくわかんないけど?」


 孟兄弟と典弘が首を傾げて小月を見る。

 小月は赤い斑点をいくつもつけた典弘の腕を見た。


「幾日か経って典弘さんが発症したら、関係性が立証されるでしょう」


「え、俺、流行り病になんの……?」


 典弘は泣き笑いの表情になった。




「なるほど。そういわれれば……多いな」


 小月の報告を聞いて、李医師は診療所の中を我が物顔で飛んでいた蚊を叩き潰した。掌に血が滲む。

 

「孟兄弟とお隣の林一家に絞り汁を作るようにお願いしてきたわ。ほかにもっと有効な方法があればいいのだけど」


「油か膏薬に混ぜて体に擦りこむほうが効率的だが、贅沢も言ってられねえしな。有効な治療法が見つからない今は予防を徹底するしかない。これから本格的な蚊の季節がくる」


「病人の血を吸った蚊が、健康な人の血を吸うことで感染を広げる。そういうことかしら」


「おそらく血の中に混ざるんだ。良くないもんがな。目に見えないくらい小さな悪いもんだ。病気の元ってのはそういうもんだ。つまり上の奴らには説明ができないし納得してはもらえないだろうな」


「病が収まれば認めてくれるかしら」


「地道に対策しよう」


 見回してみても簡素な衣服の者が多い。腕をまくり脛を出している。働きやすい格好ともいえる。小月のように踝まである裙や長い袖の衣服を身に着けている人はいない。そもそも蚊に刺されやすい格好をしている上に、衛生状態も栄養状態も悪い。一人が発症したら次々と感染が拡がるのは当然だといえる。


「蚊を遠ざけることと蚊を発生させないこと。これが肝心ね」


「今はそれしか出来ないだろう。あとはその典弘だっけ。数日経って、そいつと……俺が同じころに発症したら、ほぼ確定だろう」


「え……?」

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