第42話 街を包む煙

「ううん、疫病をやっつけることが優先。それになにより」


 護符を手にした人は緊張をふわりと脱ぎ捨てる。安堵するのだ。小月や李医師よりもまじないの護符のほうが信頼できるのだ。引け目を感じながらも小月は護符を配り歩いた。


 遠雷が聞こえた。風に流されて、鼻先に煙の匂いがまといつく。白煙の源を追うと、いつのまにか街区の端、皇都を囲む城壁の際まで来ていた。


「先生、人間が焼ける匂いは臭いね」


 振り返ると疲弊したようすの雲花がいた。火葬の責任者だ。


「焼いても焼いても終わりが見えないのが辛いよ」


「今夜はもう休んでください。雲花さんが倒れてしまってはいけません」


「うん、でもさ。ぐずぐずしていたら雨が降って来そうだし」


 二人は空を見上げた。雲が月を隠そうとしている。


「油が届いたからあとで届けますね」


「……さっき孟兄弟に蚊を避けるようにと言われたんだけど」


「そう、蚊に刺されないように気をつけて」


「私はずっと外にいたけど刺されてないのよ。きっとあのせいだと思う」


 雲花は火葬場を顎で示した。地面に穿った穴から白煙がもうもうと立ち上がっている。穴のふちには女がしゃがみ込んでいた。死んだ子を抱えて雲花を追っていった母親だ。穴から立ちのぼる煙を虚ろな顔で見上げていた。


「煙……?」


「臭いを抑えようと香りの強い草を混ぜて焼いてるんだ。枯草はよく燃えるしね。湿気があったのか煙が酷くて。最初は失敗したと思ったけど、そのうちに気づいたんだよ。虫が煙を避けてるってことに」


「そうなの?」


「とくに松葉や杉を燃やすと嫌がるみたい。利用できないかしら」


「凄い発見よ!」


 除虫草にも限りがある。松葉や杉葉の煙で虫除けが出来るなら利用しない手はない。小月はこくこくと頷いた。


「よかった。明日から手配するわ。三妹、聞いてる?」


 雲花は穴のふちにいた女性に声をかけた。三妹と呼ばれた女性は一回だけ大きく頷いた。


「降ってきたね」


 ぽつりぽつりと頬に冷たいものがあたる。


「ついてないわね」


「そうでもないわ」三妹がふいに立ち上がった。「湿り気があるほうが煙が出るから。それに虫は五行では火。水克火。雨は吉兆よ」


 思いがけなかった前向さ小月は一瞬気を飲まれた。三妹の断定は力強い。凛とした佇まいである。蚊遣りの担当はこうして三妹に決定した。




 翌日は一日中小雨が降っていた。小月は診療所の片隅で目を覚ました。雨音が心地よく、短時間のわりには熟睡できた。

 入口の布を捲ると街区の方々から煙が上がっているのが見えた。風雨のせいで煙が空にまっすぐに登らず、まるで靄のように街区全体を包んでいる。


「おはよう、ご飯食べた?」


 素焼きの器を抱えた三妹が小月を見つけて手を振った。器の中で松葉や杉葉を燃やしているようだ。


「少し煙いけど我慢してね。空き家の軒先を借りて蚊遣りを設置しているところよ」


「三妹こそちゃんと寝て、食べてるの?」


「今から休んでくるよ。二徹が美味しい豆餡入りの饅頭を作ってくれたよ、おあがりな、先生」


「李医師は?」


「とっくに食べて寝てるよ」


 鼾をかいて大の字で寝てるという。まだ発熱の徴候はないようだ。


「おい、だれか説明しろ!」老いた衛士が突然血相を変えてやってきた。「家を燃やしているのか。それとも火事か!?」


 小月は衛士に駆けよった。


「火事ではありません。煙で疫病を燻して追い出しているんです」


「しかし南街区全体が燃えているように見えたぞ」老衛士はきょろきょろとあたりを見回して、ほっと息を吐いた。「煙で追い出せるものなのか。それに、お前はいったい何者なんだ。女の医者だというのは本当か?」


「明小月といいます。李高有医師の元で修行しています」


「ふうん」


 女の医師が珍しいのか、老衛士は小月を上から下までうろんげに眺めた後、急に興味を失ったのか、隊長に報告に戻ると言って踵を返した。


「隊長さんにお伝えください。油と護符の差し入れは大変助かりましたと。出来ましたらもう一度──」


「あまり調子に乗るなよ。隊長の善意につけこむな」老衛士は釘を刺した。「こんな危険な場所に立ち入って損した。いっそお前ら街区の住人が全員死んじまったほうが助かるんだからな」


 疫病の原因はお前らのせいだ、とでも言わんばかりだ。憎しみの色さえ滲んでいる。だが火事ではないかと心配してわざわざ見に来てくれたのも事実なのだ。


「衛士さん、もしお家に貯水瓶があったら銅製品を必ず中に入れておいてくださいね」


「はあ?」衛士は小月を振り返った。


「蚊を封じてください」


「そんなことで……疫病がおさまるわけないだろ」


「じゃあ、皇帝陛下の護摩祈願が効くと思いますか?」


「おい、不敬だぞ。せめて小声にしろ」老衛士は顔色を変えた。「お、そうだ。これを見せてやろう」


 衛士が布の小袋を取り出した。中身は黒い丸薬だった。


「これは薬種屋の万病薬だ。大人気で今はなかなか手に入らない代物だぞ。ものは相談だが……もし入り用なら分けてやってもよい。治療に使わないか。むろん手数料は上乗せさせてもらうがな」


「……南街区の住人にはお金なんてないわ」


「ふん、貧乏に見せかけて溜めこんでる奴はいるだろうさ。欲しいという奴がいたら紹介しろ。医者が勧めれば絶対に売れるはずだ」


 にやける衛士に、小月は掌を向けた。


「では仲介料代わりに一つ譲ってください。病人に試してみますので」


「おう、頼むぜ」

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