第10話

「あぁ……づがれだ……」


 朝の十時の開店から夕方の五時の閉店までぶっ通しで動き続けた俺はヘトヘトになってアンティーク調の高そうなソファに寝転ぶ。


 糸魚川さんの両親は上の階にある自宅に一足先に帰宅。俺と糸魚川さんの二人が閉店した店舗に残った。


 夕日がブラインドの隙間から薄暗い店内に差し込んできていて、このまま寝られそうなくらいだ。


「おつかれぇ……いやぁ……すごかったねぇ」


 昼飯兼夕飯のサンドイッチを頬張りながら糸魚川さんが俺を起こしてソファのスペースを確保して座った。


「疲れてるよね。膝枕してあげよっか?」


 糸魚川さんは俺の頭を撫でながらそんな提案をしてきた。


「いや、大丈夫」


「こんな美少女のお誘いを断るとはなぁ……」


「その理屈なら俺の方が可愛いんだから糸魚川さんが俺の膝枕で寝転びなよ」


「いいの!? お邪魔しまーす!」


 糸魚川さんが勢い良く俺の膝に寝転んでくる。


 下を見るとはずかしいので俺はコーヒーを飲みながら壁を眺める。


「いやぁ……綺麗だよねぇ」


 下から糸魚川さんのしみじみとした声が聞こえる。


「ほんと、綺麗なお店だよね」


「そこ!? 今は奏君の顔のことなんだけど!?」


 下から長い腕が伸びてきて、糸魚川さんの細い指が俺の顎をなぞった。


「くすぐったいよ……」


「顔のラインもシュッとしてるし、顎も尖ってるし、鼻も高いし……いやぁ……羨ましいよぉ」


「ま、俺は世界一可愛いからね」


 そう言ってドヤ顔で下を見る。


「そうだね、美少女君」


 糸魚川さんはニッコリと笑う。俺が鏡の前で何度練習しても辿り着けない自然な笑顔。どれだけ可愛くなろうとしても本物には勝てないのだろうか、と思わされる。


 それに可愛いものは可愛い。照れているのがバレるのが恥ずかしいので前を向く。


「お、私の勝ち?」


「か、勝ち負けじゃないから」


「あー! さっきと言ってること違うんだけどー!」


「い、いいじゃんか。糸魚川さんも俺も可愛い。以上」


「有愛だよ、ア・リ・ア」


「へ?」


「今更糸魚川さんとか距離遠くない? それにほら、長いでしょ? 五文字もあるしさ。いといがわ」


 言われてみればさっき俺のことをこっそり奏君と名前で呼んでいたことを思い出す。


「奏君に有愛。どう?」


 有愛は自分と俺を交互に指さしてそう言う。


「い、いいよ……」


「へへっ。じゃ呼んでみてよ。目を見ながら」


 有愛は少しだけ目を潤ませ頬を赤くしておねだりしてくる。


「あ……有愛、さん?」


「もっとお嬢様っぽく!」


「有愛お嬢様〜! ごめんあそばせ〜!」


「あははっ! やっぱ女の子にしか見えないんだよなぁ」


 有愛はケラケラと笑いながら起き上がり、下を向いてズレた俺のウィッグを直してくれる。


 そのまま座り直すとうっとりとした目で俺を見てきた。


「はぁ……可愛いなぁ……」


 有愛がしみじみと声を漏らす。可愛い。何よりも嬉しい言葉だ。


「ふと思ったんだけどさぁ、私が女装した奏君を好きになったらそれは百合なのかな?」


「いや……違うんじゃないの? だって……ん? いやどうなんだろう……っていうか女装した俺を好きにならないでくれる!?」


「あははっ! 男の子の姿ならいい、と」


「それは……任せるけど」


「じゃあさ……とりあえず女の子の方で、一回キスしてみちゃう?」


「乱馬じゃないから女の子の方とかないんだけど……うわっ!」


 いつもの適当な冗談だと思っていたのだが、有愛は俺の腕を掴むと鼻の穴を膨らませて顔を近づけてきた。


「え? え? が、ガチ!?」


 有愛は戸惑う俺を放って一人で目を細めて変なモードに入ると徐々に顔を近づけてくる。


 今、美少女が迫られている。いや、美少女が迫っているのだ。はたまた美少女が美少女に迫られているのか。自分の置かれた状況を理解するのに必死になってしまう。


「女の子同士みたいなものだしいいよね? ね?」


「お、男なんだって……」


「視覚的には女の子としてるようにしか見えないもん」


「それはそれでいいのかって問題が……」


 禅問答のような応酬を繰り返している間にも俺の肩は有愛に掴まれ逃げられない態勢になりつつある。


 有愛は俺のすぐ目の前に顔を持ってくると一度ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「こっ……これは女の子とのキスだからノーカン。おっけ?」


 おっけじゃないんだけど!?


 おっけではないのだけど身体が硬直して言葉が出なくなる。有愛は何かのスイッチが入ったようにはぁはぁと息を荒くして唇を一度湿らせた。


「じゃ……じゃあいくね」


 俺許可してなくない!? 順番とか色々おかしくない!?


 身体は受け入れるつもり満々だが、少しだけ残っている理性が身をよじらせる。それでも有愛の拘束は解けない。


 あと数センチでぶつかる。覚悟を決め、息を止めて目を瞑る。


 ブーッ! ブーッ!


 その瞬間、有愛のスマートフォンが鳴動して俺達は冷静さを取り戻したように距離を取って座り直した。


「あ……い、今のは……その……」


 有愛は冷静になって自分の行いを思い出したらしく、顔を真っ赤にして両手で覆う。


「いやまぁ……ムラムラっと来たのはわかるけど……俺がかわいすぎるからさ」


 変に気まずくならないように冗談を投げ込む。


「ぷっ……あははっ! そう! そうなの! 可愛すぎて、つい……ね」


 有愛は両手を叩いて笑い転げる。


 そして、有愛の興味は俺の唇からスマートフォンに移った。大きな目を何度も左右で往復させて届いたメッセージを読み下している。


「どうしたの?」


「あー……こ、これはまずいかも……」


 有愛は俺にメッセージを見せてくれる。差出人は三条さん。


『有愛さん! 今日お店に行きました! オリーブさんと知り合いなら教えてくれれば良かったのに! それで……相談なんですけど……私、オリーブさんと会ってたくさんお話したいです。やっぱりオリーブさんって忙しいんですかね……』


 うん、これはまずい。


 俺は有愛と目を合わせて苦笑いするしかなくなってしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る