第5話

 ぐちゃぐちゃになっていた俺の思考を断ち切るように、教室の扉が開いた。

 教室に入って来たのは、この二年三組の担任、檀原 照和(だんはら あきかず)。柔和な顔をした優しい先生で、男子のほとんどは檀センと呼んでいる。いつもなら教室に入ってくるのは檀セン一人のはずだが、今日は先生の後ろに、もう一人姿があった。

「この二年三組に、新しい仲間が加わることになりました」

 教卓の前に立った檀センの一言で、教室がにわかに騒がしくなる。だが、彼女が教室に入ってきた瞬間、その騒ぎはより大きなものとなった。

 教室に入ってきたのは、女神だった。そうとしか表現できない美女が、この教室に降臨した。

 着ているのはこの学校のセーラー服なのだが、彼女が着れば天女の羽衣にすら見える。よく見れば、校則の範囲内で少し着崩しており、それが彼女の妖艶さを増していた。

 髪は頭の後ろで一つにまとめているが、前髪は三つ編みになっており、もう俺の語彙では彼女の美しさを表現することが出来ない。教室中も、ざわめいている。

「うっわ、綺麗……」

「え、モデル?」

「スタイルいいなぁ……」

「っていうか胸が、胸でかっ!」

「ばっか、注目すべきは尻だろうが!」

 天女には俺たち下々の声など聞こえないのか、檀センに言われるまま、黒板に自分の名前を書いていく。書き終わると、彼女は月見草のような笑みを浮かべ、教室を見渡した。

「若桑(わかくわ) みどりと言います。父の仕事の都合で、こちらに越してきました。最初はご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、これからよろしくお願いします」

 誰も、何も言えなかった。彼女の発する一語一句、一礼する間の一挙手一投足、その全てが美しい。その美しさに、誰もが目を奪われていた。もちろん、この俺も。

 そんな中、ある生徒が立ち上がった。

「はいはーい! わたし、森下弓子っていいまーす! これから、よろしくねっ。みどりちゃん!」

 天真爛漫に笑う森下を見て、若桑は驚いた表情を浮かべ、その後控えめに笑みを作った。

「こちらこそ、よろしくお願いします。森下さん」

「弓子でいいよー」

「あら、ではそう呼ばせていただきますね、弓子さん」

 そう言って笑い合う二人を見て、俺は安堵の溜息をついた。森下が立ち上がった時は冷や汗モノだったが、何の問題もなくホッとした。

 その時、

「待ってくれぇ、みどりちゃん。こんな奴、君に相応しぃくない」

 そう言いながら、原がキザったらしく教卓に向かっていく。

「あの、どういうことなんでしょう? えっと……」

「オレの名前はぁ原丸太。君が恋するぅ男の名前さ」

「は、はぁ……」

 困惑気な表情を浮かべた若桑は、原が近づく度、教卓から少しずつ距離を取り始めている。それを確実に気づいていない原は、悠然とした笑みを浮かべ、森下を指さした。

「あれの見かけは人間に見えるが、その実その正体は、何とゾンビなのさ」

「ゾ、ンビ? では、弓子さんは復帰者なのですか?」

「そーだよー」

 森下はのんきに笑っている中、俺は昭と話していたことを思い出していた。

『復帰転生法が施行されてからもう二十年以上経つけど、まだ復帰者に対する偏見は残ってるんだね』

 若桑も、もしかしたら……。

「みどりちゃんとゾンビではぁ、釣り合わなぁい。嫌な臭いが付いてしまったら大変だぁ」

「原、テメェ!」

 俺が席を立った所で、原の口は止まらない。

「そぉう。みどりちゃんにはぁ、オレこそがぁ相応しい。どうだろぉ? 君がどうしてもというのならぁ、付き合ってやってもーー」

 そこで、原の話は強制的に止められた。俺が殴ったわけじゃない。そうしてやりたかったが、俺が教卓にたどり着く前に、その代わりをやってくれた人がいた。

 若桑だ。

「あなた、最低ですね」

「……へ?」

 何が起きたかわからないと言った表情で、原は床に尻餅を着いたまま、殴られた左頬を押さえ、若桑を見上げている。

 若桑は原を殴った右拳を解かず、むしろ見せつけるように原の前に掲げた。

「復帰者は、政府によってその人権が保証されています。つまり、私と同じ人間なのです。まぁ百歩譲ってその在り方がゾンビのようだ、と感じるのは構いません。ですが、事実無根である臭いについて、しかも女性に対してその狼藉! 私は、あなたを軽蔑しますっ!」

 まだ呆けている原に、若桑は握った右拳の親指だけ突き出し、その先端を地面に向け、ニッコリと笑った。

「後、他人を貶めることで全く根拠の無い自信を手に入れようとする方と、私、お付き合いなんてする気はさらさらありません。消えてください」

 原は立ち上がりながら、顔色を赤、青と変化させた後、半泣きになり、のろのろと教室から出て行こうとする。

「待て、原」

 それを止めたのは、今まで静観していた二年三組の担任、檀センだった。

 誰かに呼び止めてもらいたかったのか、原は満面の笑みを浮かべて檀センに振り返る。

「檀セン! ははっ、そ、そうだよ。わかってるじゃぁないか檀セン。この中でぇ、オレが一番まともだってぇわかっているのは檀セーー」

「外に行くなら、若桑の机を運んできてやってくれ。廊下に出してあるから」

「ちくしょぉおっ!」

 原は泣きながら教室を飛び出していった。

 それを見て、俺は自分が最後に泣いたのはいつだったか思い出そうとしていた。そして森下が蘇った時以来、俺は泣いたことがないんだと思い至った。

 出て行った原を横目に、若桑は森下に笑いかけた。

「弓子さんは、素敵なお友達をたくさんお持ちなんですね」

 そう言われて振り返ると、俺以外にも何人か席を立っている。

 その内の一人である昭が、檀センに向かって手を上げた。

「檀セン。若桑さんの席って、何処になるんですか?」

「そうだなぁ。宍戸の隣にするようにしてくれ」

「え? 俺の隣?」

「はいはーい。それじゃあ皆、机動かすから準備して」

 戸惑う俺をよそに、昭と同じく席を立っていた新藤さんが手を叩いた。流石クラス委員と言うべきか、彼女の細やかな指示で、あっという間に俺の席の隣に若桑の机を置くスペースが出来上がる。俺が手伝う暇もない。所在なげにしていると、檀センから早く自分の席に座るように言われた。何も手伝えなかったこと対して多少の罪悪感を感じながら、俺はバツが悪そうに自分の席へと戻っていく。

 すると、何故だか若桑が俺の後を追ってきた。何故? と思ったが、彼女は俺の隣の席になる。彼女は俺を追ってきたのではなく、自分の席へと向かっているのだ。

 自分の席に到着すると、俺は若桑の方へ振り向いた。彼女も、俺の方を見ている。

「今日から隣の席になる、宍戸儀一だ。よろしく」

「二度目になりますが、若桑みどりです。まだこの学校の教科書がないので、授業の際、私に見せていただけますか?」

「落書きだらけのもので良ければ、喜んで」

 教室中に笑いが起きる中、檀センが笑わず俺を見ているのに気づき、これは後で呼び出されるな、と覚悟した。

 ちなみに原は檀センの言いつけ通り、若桑の机を教室に運んできた。

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