第3話 婚約破棄まであと8日-1
話し合いは穏やかなまま進み、予定どおり婚約は破棄すると改めて確認しあった。
素直に頷くと、茶を淹れていたメイドがやけに驚いて、その後ちょっと残念そうな顔をしたように見えて、エレナは首を傾げる。
夕方にはジェイクの診察を受け、無理をしないことを条件に明日は帰宅していいと許可もでた。
とはいえ、頭部の負傷は後から症状が出る場合もある。
怪我をした場所がオスカーの屋敷内だったことからも、エレナの両親が王都に着くまでは毎日連絡を取り合うことになった。
「ご面倒をおかけします」
「……いや」
オスカーは気まずそうに目を逸らす。
さんざん迷惑を掛けられていた彼は、今のエレナの扱いに困り切っているようだ。
「オスカー様。わたしに対して、これまでと同じにしてくださっていいですよ」
「話が通じる相手を無視しろと?」
「あ、オスカー様の外聞が悪くなってしまいますね」
「そういうことではない」
エレナがあまりにも前と違うから、引き続き邪険にすることは性格上できないようだ。
そうはいっても外見は元のままだから、ちぐはぐに感じるのだろう。
こればかりはエレナにもどうしようもなくて、ただ申し訳なく思う。
「では、わたしが前と同じように振る舞えばいいでしょうか? ちょっと自信ないですが、頑張ってみます」
「それはしなくていい」
同じ顔なのに行動が違うから困惑させてしまう。ならば言動を元通りにすれば……と思ったのだが、即座に却下されてしまった。なんとも難しい。
いい解決法が思いつかないまま日は変わり、オスカーの仕事が一段落した夕方、伯爵家へ戻る支度が整った。
エレナは先日、ここに着いた時点で侍女も馬車も帰してしまっていた。
家の場所すら覚えていないエレナを迎えに来させるよりも、オスカーが送り、直接詳細を伝えるほうがいいとなって、子爵家の馬車で自宅へ向かう。
ボールダー伯爵家へ向かう馬車に乗っているのはエレナとオスカー、それにジェイクの三人だ。
「ジェイクは来なくてもよかったのだが」
「患者の療養環境を確認するのは、医師の義務だよ」
伯爵家の使用人に、記憶をなくした令嬢を世話したことがある者はいないだろう。
怪我の手当方法も含め、注意事項を説明したいというジェイクの意向は当然に思えるのだが、オスカーは不満のようだ。
「俺が話せばいいだろう」
「手当ての仕方とか注意点とか、オスカーが全部説明できるならね」
二人の気兼ねない言い合いをエレナは向かいの座席で楽しく聞く。
ジェイクはピアース男爵家の次男で、オスカーとは寄宿学校時代に同じ部屋だったそうだ。
卒業後は医学の勉強のために隣国に留学し、最近帰って来てウェスト家の主治医となったばかり。
オスカーが婚約したことは知っていたが、エレナに会ったのは患者としての昨日が初めてだ。
元を知らないゆえ、変貌した今に違和感を持たない彼と話すのはエレナも気が楽である。
「先生も、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。それより具合はどうです? 揺れない道を選んでいますが、傷に響いたりとかは」
「大丈夫です」
包帯を巻いた頭と、三角巾でつられた自分の腕を指しながら、エレナは礼を言う。
実を言うと、まだあちこちが痛む。
さほど支障なく動けているのは、腕や肩に負担のかからないドレスをオスカーがわざわざ用意してくれたからだ。
以前のエレナにすれば地味すぎる若草色のティーガウンで、メイドたちには「よく似合う」と褒められたし自分でもそう思う。
(嫌いな相手にここまでしてくれるなんて、本当にできた人)
一枚でいいのかとしきりに訊かれたが、十分だと断った。
装飾は控えめだが上質の布地をふんだんに使っていて、夢の記憶で一介の主婦だったエレナには贅沢すぎるほどなのだ。
オスカー・ウェストという人は、もうすぐ婚約を破棄する相手にもこれほど気を遣ってくれる人だった。
ますます以前のエレナの態度が申し訳なくなる。
(だからこそ、早く解放してあげなくちゃ)
オスカーとの縁が切れると思うと胸が絞られるように切なくなるのは、きっと、記憶はなくとも元のエレナの心が残っているからだろう。
胸の奥で泣いている誰かを慰めるように、軽く柔らかな布の上からそっと手を置いた。
外を眺めていたジェイクが、なにか思いついたようにエレナに顔を向ける。
「エレナ嬢。このあたりは王都の中心街です。よくいらしていたそうですが、見覚えはないですか」
「ええと……ありません。ずいぶん人が多いですね」
「それは、夢と比べて?」
「はい。住んでいたのは郊外でしたし、わたしはあまり町にも行かなかったので……知らないお店ばかりで、新鮮です」
夕暮れ時になっても盛況さを失わない町の様子に圧倒されながら、エレナは意識を失っていた間に見ていた夢と比較する。
やけにリアルなあの夢のことはすでに二人に話してある。
それを聞いて納得したのはジェイクだ。
医師である彼が言うには、過去の記憶と、行動によって得た経験が今の自分という個を作るのだそう。
普通であれば、核となる記憶を失って平静でいられるはずがない。
エレナが精神的に安定しているのは、夢の記憶が現実の記憶の代わりになって支えているのだろう、とのことだった。
夢も覚えていなかったら、きっと心の均衡を失っていた。
だから今、その夢に縋ることは悪くないと言われてエレナは救われた気がした。
(でも、いつまでも忘れたままも困るわ)
ジェイクは医師だし、記憶をなくしてから初めて会ったということもあり、特別なにも感じない。
けれど、オスカーに対しては違う。
目が合うたびに罪悪感と焦りが不自然に込み上げて、それが過去にかけた迷惑のせいか、別のことが理由なのか分からなくて落ち着かないのだ。
そんなことを思っていたら、オスカーと目が合う。
「……なかなか思い出せなくて、すみません」
「い、いや。気にすることはない」
以前のエレナは、よほど謝ったことがなかったのだろう。素直に謝罪を口にする今のエレナに、オスカーは慣れないようだ。
そっぽを向いたまま返事をして隣のジェイクに肘でつつかれている。
そんな二人にエレナはほっと小さく息を吐く。表情も視線も曖昧にしてくれる薄いベールがありがたかった。
頭に巻いている包帯と、結えずに下ろしている髪を見られないように、エレナはベールを被っている。
怪我の原因を詮索されたり、身だしなみも整えずに出歩く令嬢と後ろ指をさされるのは不憫だと、子爵家のメイドが用意してくれたのだ。
エレナは彼女たちにも酷い態度を取っていたはずなのに。
(こんないい人たちに、どうして……)
どれだけ具体的に聞いても、過去の行いは他人事のようにしか感じない。
そんな「今のエレナ」から詫びられても、不本意だろう。
家に帰れば、なにか思い出すだろうか。
いや、思い出さなくてはいけない。
空っぽの胸の前できゅっと手を握りしめ、エレナは背もたれに体を預けた。
革張りの座席はクッションが効いている。座り心地は比べものにならないのに、夢の中の揺り椅子が無性に恋しかった。
§
ボールダー伯爵家のタウンハウスに着いたのは、ちょうど日が沈む頃だった。
事前に連絡をしていたにもかかわらず、扉前で訪いを告げてから反応が返ってくるまでに時間がかかって、オスカーは納得がいかなそうに眉を寄せる。
怪我のことを伝えているのだから、介助のために馬車停めで使用人が待機していてしかるべきだと言うが、エレナにはピンとこない。
そういった貴族的な常識も、記憶と一緒に置いてきたのだろう。
「重ね重ね、申し訳ありません」
「……君が謝ることではない」
目も合わさずに言われるが、声音にはエレナを責める色がなくて少しほっとする。
やがて鈍い音を鳴らして重そうな扉が開く。踏み入った邸内は予想以上に暗くてエレナはベールを外した。
「案じておりました、お嬢様」
思わず肩が震えるような冷たい声でエレナたちを出迎えたのは、背の高い初老の女性だった。
「届いたお手紙には、お怪我をなさって記憶も不確かと」
「え、ええ」
「私のことはいかがです?」
家を出たときとは打って変わったエレナの地味な装いをくまなく眺め、苛立たしそうに包帯を睨む。
まるで尋問のように問いかけてくる使用人に、隣のオスカーも不審そうに目を眇めた。
「……覚えていないわ」
「そうですか。私はルイーズ・バッソと申します」
元々エレナの母カタリナの専属侍女であり、伯爵夫妻が不在時のこのタウンハウスの責任者でもあると自己紹介をした。
使用人を卑下して無視ばかりするエレナが唯一、直接口をきく人物だ――とすると、かなり接点があったはずだが、顔を見ても声を聞いても、やはりなにも思い出せない。
ただ、ルイーズの灰色の瞳にそわりと背中が冷えた。
(なに……?)
言葉にできない警戒感が胸に広がる。
エレナの怪我も予定外の外泊も、ルイーズはよほど腹に据えかねているらしい。オスカーに対して彼女は不満を隠さなかった。
「ウェスト子爵。お嬢様をお送りいただきましたことに御礼申し上げます。あとは私どもにお任せください」
険のある目付きで慇懃に礼を言うと、ルイーズはオスカーから奪い返すようにエレナの腕を掴んだ。
「ッ……!」
急に引っ張られて変に力が加わり、傷が痛んでエレナは唇を噛む。
「おい、乱暴はよせ!」
「子爵様は、怪我をさせるためにお嬢様を呼びつけたのですね。ご立派な当主にご大層なお屋敷でいらっしゃいますこと」
邸内での事故は当主の責任だ。そこを突かれて、オスカーはエレナを引き戻そうとした手を握り込む。
「早々にお引き取りください。顔も見たくございません」
「待って。オスカー様はなにも――」
「ジェニー、お嬢様を部屋にお連れしなさい」
「はっ、はい。お嬢様、こちらに」
反論し、謝罪しようとしたがそれも許されず、まるで汚らわしいものから遠ざけるようにオスカーとの間を遮られ、別のメイドに渡される。
ジェニーと呼ばれたメイドに連れて行かれながらも振り返るが、オスカーにはそのまま行けと手を振られた。
(そんな、こんなのって)
怪我はエレナのせいだし、オスカーはすぐに
むしろ助けてもらったのだ。彼が詰られる謂れはない。
オスカーのウェスト家は子爵位で、エレナのボールダー伯爵家とは家格差があるのは事実だろう。
しかしエレナは跡取りでもなく、個人の身分でいえば現当主のオスカーのほうがよほど上。
そもそも、いくら自家の令嬢を心配したとしてもルイーズは使用人だ。この態度はありえないと、記憶のないエレナでさえ分かる。
また、謝ることが増えてしまった。
「医師としていくつか注意点を伝えたいのだけど」
「結構です。お帰りを」
しかもジェイクに対してルイーズは顔さえ向けず、まるで路傍の石と同じ扱いだ。
背に掛かった「また明日来る」というオスカーの声にどうにか頷いて、エレナは何度も振り返りながら腕を引かれて薄暗い玄関ホールを後にした。
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