第2話 婚約破棄まであと9日
ボールダー伯爵令嬢エレナと、ウェスト子爵オスカーの婚約は、当然ながら自由恋愛の結果によるものではなかった。
エレナの祖父とオスカーの祖父は親友と呼べる間柄だった。
二人は自分たちの子供を結婚させようと決めていたのだが、生まれたのは双方男児だけ。
戦時に背中を預け合った祖父たちが両名とも他界すると二家の縁は遠くなり、婚姻の約束も自然と消えた。
そのまま終わるかと思いきや、時が経ち、ボールダーとウェスト両家の嫡男がたまたまパーティーで出会い、昔話に花が咲いた。
今はお互い男女の子に恵まれていることが判明し、年齢もちょうど良い。
その結果、とんとん拍子にエレナとオスカーの婚約が成った。
一度流れた約束が孫の代になって果たされることは貴族社会で珍しくないが、ひとつ問題があった。
容姿端麗で名高い子爵令息との婚約をエレナは喜んだが、オスカーはそうではなかったのだ。
傲慢で自分勝手な我儘令嬢。
それがエレナ・ボールダーに対する周囲の評価だ。
エレナが三歳の頃に亡くなった実母カタリナは、隣国の元王家傍流でたいへんな美貌の持ち主だった。
しかし娘のエレナは髪も瞳も地味な色合いで容姿も平凡。
エレナが母から引き継いだ唯一のもの、それは気位の高さである。
後添えの継母や異母弟を常に見下しており、特に使用人の扱いが酷い。
エレナが直接口をきく使用人は、実母についてきた隣国出身の侍女だけという徹底ぶりだ。
嫉妬深く、オスカーに話しかける令嬢はそれだけで警戒された。オスカーの従姉妹クリスタベル嬢など、何度泣かされたか分からない。
オスカーの両親はエレナと婚約が成ってすぐ不慮の事故で亡くなっている。
ウェスト家でも高慢な態度だったが、急な代替わりで多忙を極めたオスカーがそちらに構う余裕がなかったこともあり悪態は改まらなかった。
銀髪に海色の瞳という容姿と同じく秩序と静謐を好むオスカーは、正反対ともいえる気質のエレナに対し、好意を持てなかった。
何度か婚約解消を打診したが通ることはなく、むしろ去年からは「オスカーの近くにいたい」と領地には戻らず自分だけ一年中王都に滞在している。
タウンハウスの維持やエレナの世話のために、シーズン外にも余分に使用人を雇わねばならない。
かかる費用も少なくないというのに、我儘女王のエレナを止める術は家族にもないらしい。
むしろ、厄介者をオスカーに押しつけようとするボールダー家の魂胆が透けていた。
婚約が結ばれたのは三年前、エレナが十七歳、オスカーが二十歳の時だ。
ようやく子爵当主としてオスカーの立場が落ち着いてきた今も、二人揃って夜会に出ることもない。
結婚前から先が見えるような関係だったが、先日、オスカーの祖母イーディスのアクセサリーをエレナが勝手に持ち出そうとしていたことが発覚した。
イーディスはオスカーに残された唯一の直系の身内だ。
最近は年齢のせいで歩くことが困難になり別館に籠もりがちだが、幼い頃から忙しい両親に代わって可愛がってくれた人である。
エレナもさすがにイーディスの前では大人しく、珍しく関係は悪くなかったはずだった。
エレナが盗もうとしたのは、祖母が大事にしているブローチだ。
いくら婚約者とはいえ越えてはいけない一線があるし、それ以前にエレナのような人間とこれ以上関わりたくない。
さすがに忍耐の緒が切れたオスカーに呼び出され、直接婚約破棄を宣言されたエレナは部屋を飛び出した。
文句でも言おうとしたのだろう。イーディスが暮らす別館に駆け込み、階段から足を滑らせ落ちたのだった。
「エレナ、いいところがないですね」
「まったくだ」
「そんな方と婚約だなんて。お察しします」
「……君に同情されるのは複雑なのだが」
記憶障害だと診断を受けた翌日の今日、エレナとオスカーは改めて顔を合わせた。
ベッドから降りられないことに詫びを入れられて面食らったのはオスカーだけではない。
湿布の交換や食事の配膳などで出入りするメイドもまた、すっかり人が変わったエレナに対し、昨日からずっと腫れ物に触るような扱いだ。
たまたま遊びに来たクリスタベルが別館のそばを通った際、普段にはない――エレナが階段から落ちた――音を聞いたため、すぐに救助ができた。そう教えられ、エレナは恐縮する。
かなり出血があり、発見が遅かったらそのまま天に召されていたかもしれない。エレナが助かったのは、彼女のおかげだ。
しかし、恩人であるクリスタベルはこの場にいない。
「直接お礼を言えなくて申し訳ないです」
「……いや」
詫びるエレナをいぶかしそうに眺めて、オスカーは言葉を濁す。
犬猿の仲というか、エレナが一方的にクリスタベルを毛嫌いしており、天地が逆になっても礼など言わないはずなのだから驚くというものだ。
「全部知りたいと言うから話したが」
「ええ、ありがとうございます。ショッキングなお話でした」
「君のことだ」
「あ、そうでした」
背中にクッションを当てて半身を起こしたエレナの肩に、ミルクティーブラウンの髪がかかる。
記憶がないことによる不安はあるだろう。だがヘーゼルの瞳には落ち着きが窺え、これまでの彼女とは表情も声音もまるで違う。
(同一人物とは信じ難い変わりようだな)
これが芝居なら大した女優だ。
以前のエレナは常に気を張っており、威圧的な雰囲気をまき散らしていた。
際限のない悪口を聞きたくなくて顔を合わせることも稀だったのに、今のエレナとはこうして穏やかに会話が続くことも、オスカーは信じられないでいる。
「わたしが盗んだという、おばあ様のブローチはどうなりましたか?」
「祖母が気づく前に、クリスタベルが宝石箱に戻した」
「それならよかったです……!」
エレナは本心からほっとしたように、肩の力を抜く。
ブローチは祖父から祖母への贈り物だった。
中央に配された大粒のトパーズは言うに及ばず、囲むダイヤの一粒だけでもかなりの値が付くだろう逸品だ。
市場価値は横においても、専用の宝石箱を開けるたびに祖母が穏やかな眼差しになる、思い出の品である。
「どうして私はそんなことをしたのでしょう」
「現場を見つけたベルには『子爵夫人になる自分は、これを持つ権利がある』と。私がエレナに一切贈り物をしないから、代わりに貰った――と、言っていたそうだ」
「あら。そんな理屈は通りませんのに」
残念な令嬢ですねえと、まるで他人事のように呟くエレナにオスカーは拍子抜けをする。
部屋に使用人たちがいる状態で、自分の失態を話されることを気にしていないことも違和感しかない。
目の前にいるのは本当に
「そんな状況では、婚約を破棄するのは当然ですね」
「そう思うか」
「ええ」
今年のシーズンのために、エレナの家族――父と継母、そして異母弟――が領地から王都に来るのは十日後の予定だった。
実際の婚約解消の手続きは彼らが来てからだが、その前に本人に話を通そうと思ったことが昨日の事故に繋がった。
「むしろ、よく三年も我慢なさったと。ね、皆さんもそう思うでしょう?」
「はい――っ、し、失礼を!」
「あら、構わないわ」
あっけらかんと訊かれた使用人たちがつい頷いてしまう。我に返って青くなったメイドに、エレナは眉を下げて笑みを浮かべた。
(咎める気もないのか)
この家でエレナの相手をする羽目になることが一番多かったクリスタベルの話では、僅かでも粗相をした使用人は罵倒されていたというのに、その片鱗も見えない。
顔立ちさえ違って見えるのはいつもの濃い化粧をしていないせいだろうが、今の素顔のほうがよほど好ましい。
(好ましい? 俺はなにを――)
自分でも予想外の心の動きに、思わずエレナを庇うような言葉が口をついて出る。
「……始めの頃は、そこまで酷い関係でもなかったはずだ」
「そうなのですか?」
「そもそも滅多に話もしなかったから、実際いつから不仲になったのかよく分からないが」
(そうだ。話をするどころか、会ってもいなかったじゃないか)
婚約が調ってすぐにオスカーの両親が事故で亡くなった。
準備不足のまま継いだ家のことで手一杯で、できたばかりの婚約者に回す気遣いなど残らなかったし、エレナからも当初は積極的な接触はなかった。
それをいいことに、本来すべき婚約者としての役割も放棄していたのは事実だ。
忙しかったとはいえ、カードの返信はおざなりな代筆で、誕生日の贈り物すら渡していないのは、とても褒められることではない。
悪い評判を耳にするようになった最近まで疎遠だった。
しかも、オスカーに執着しだしたエレナとは距離を取り、できる限り避けていた。
最後にまともな会話をしたのはいつか、それすら覚えていない。
エレナの問題ばかりを挙げ連ねたが、自分にも非はあった。
思い返してみれば、子爵邸に来るようオスカーからエレナへ連絡したのは今回が初めてだった気もする。
(婚約者から初めて呼ばれた理由が、婚約破棄のためか。……笑えないな)
初顔合わせの際に、エレナはオスカーに一目惚れをしたという。
そんな相手から冷たくあしらわれ続け、ついに婚約も破棄されるとなったら平静ではいられないだろう。
衝動的に、直接のきっかけである別館の祖母の元へ駆け込んだのかもしれない。
――などと落ち着いて考えられるのも、エレナが別人のようになったからだろうか。
黙り込んだオスカーに、エレナが声をかける。
「せっかくお話を伺ったのですけど、やっぱり思い出せません……でも、エレナがオスカー様を好きになった理由は、なんとなく分かる気がします」
「なに?」
聞き間違えたかとオスカーが逸らしていた視線を向けると、エレナは軽く握った手を胸に当てていた。
心の声を聞こうとするようにゆっくり瞬きをするヘザーの瞳は、ここではない遠くを見ているようだ。
(……どうせ外見だろう)
自分の容姿が女性に好まれる類のものだということは、経験から分かっている。
ろくに会話もしていないエレナに、ほかの理由などありえない。
聞き飽きた褒め言葉を適当に流そうと構えたオスカーは、続くエレナの言葉に耳を疑った。
「嫌いな
「……俺が偽りを言っていないとなぜ分かる?」
「だって『婚約者に贈り物を一度もしていない』だなんて。ふふ、正直すぎますよ」
全部「エレナが悪い」で押し切れた話だ。
隠す様子もなく告白したのは心底エレナに興味がないからとも取れるが、婚約破棄を申し出る側がわざわざ自分のマイナスになるようなことを教える必要はない。
そう言って目の前の女性はふわりと微笑む。
額に巻かれた包帯が痛々しかった。
「そんな誠実な方だから、惹かれたのでしょうね」
午後の日差しを受けたエレナの輪郭が霞んで見えて、オスカーは今度こそ目を擦った。
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