婚約破棄までの10日間
小鳩子鈴
第1話 婚約破棄まであと10日
新連載よろしくお願いいたします。
10話+αの短め連載、しばらくは毎日投稿の予定です。
※近況ノートで先行公開(サポーター様限定公開)しています。
2023/04/01 小鳩子鈴
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長い夢を見て目が覚めると、エレナ・ボールダーの世界はすっかり変わっていた。
豪華な寝台に横になったまま、美しい漆喰装飾の天井と、寝台を囲んでいる天蓋に目を瞬かせる。
明るい陽差しが布を透かして入ってきて今が日中だと分かるが、どうして自分が寝かされているのかは分からない。
布で仕切られた向こう側には複数の人の気配があった。
「ここは……痛っ?」
起き上がろうとすると、頭と肩に鋭い痛みが走る。
ズキズキと脈を打つ額に手を当てたら布が触れた。どうやら包帯を巻かれているらしい。
「エレナ様、気付かれましたか。すみません、御髪やお召し物はこちらで替えさせていただきました」
「あ、あの」
「ご不満でしょうが、手当てのためでしたのでご容赦を。先生、お願いします」
(先生?)
痛みにあげた声が聞こえたのだろう、黒いワンピースに白いエプロンのお仕着せ姿の女性が天蓋の布をめくってこちらを覗く。やはり見覚えのない人だ。
一方的に状況を話し天蓋の向こうに声をかけると、今度は白衣の男性が現れた。
年の頃は二十代前半、ダークブラウンの髪に緑色の瞳。理知的だが人懐こそうな雰囲気は安心感を抱かせる。
なるほど、「先生」と呼ばれていたし医師なのだろう。
頭の包帯を外して患部を診つつ「具合はどうか」と訊ねてくるが、先程までの夢の余韻と傷の痛みでうまく返せない。
言葉少なに答えていると、視界の外からよく通る落ち着いた声がした。
「どうだ、ジェイク?」
「うん。頭部の出血は止まったようだよ。肩と腕の打ち身はちょっと酷いけど、幸い骨は折れていないから湿布で治ると思う」
「そうか。まったく……」
ほっと吐いた息は安心ではなく呆れの苦々しさを纏っていて、見えない表情がありありと想像できてしまった。
(誰かしら。それに、かなり不満そう)
男性の声に聞き覚えはない。
内心で首を捻っていると、ジェイクと呼ばれた医師が痛み止めの薬を渡してくる。飲み終わってまた寝台に横になると、天蓋が大きく開かれて声の主が傍に来た。
メイドたちはさっと場所を譲り、親しそうな口調で話していたジェイクも下がる。
つまり、ここではこの彼が最も身分の高い人物に違いない。
(……綺麗な人ね)
男性にこういう言い方はそぐわないかもしれないが、「美しい」と言う言葉がぴったりだ。
年齢はジェイクと同じくらい。整った容姿に似合う漆黒の貴族服、鋭い剣を思わせる銀色の髪。優雅だが隙のない身のこなし。
そんな美麗な容姿とは裏腹に、発する気配は剣呑だ。
まるで親の敵にでも会ったような眼差しで、怜悧な海色の瞳に見おろされる理由がわからなくて戸惑ってしまう。
「エレナ・ボールダー。起き上がれるようになったら帰ってくれ」
藪から棒の宣告になんと返せばいいのだろう。逡巡したが、また頭痛がして考えることを諦めた。
だって、どうやら――
「先に話したとおり、婚約破棄の手続きはこちらで進める。君の両親が王都に来たら――」
「あの」
自分が発したのに、別人の声に聞こえる。
言葉を遮られて分かりやすく眉を顰めた男性と、まっすぐ目が合った。
「どなた様でしょう?」
「……は?」
「わたしはエレナという名なのですか? 帰れとおっしゃる家がどちらにあるのか、教えていただけるとありがたいのですが」
まったく、さっぱり、分からない。
ここがどこなのか、この人たちが誰なのか、どうして自分はここにいるのか。
そう告げると、診察鞄を閉じて帰り支度を始めていたジェイクが踵を返して寝台脇に戻ってきた。
§
しばらく問診を続けた後、エレナは記憶に障害がある状態だと診断された。
渡された手鏡を覗いて不思議そうに頬を摘んだりしているエレナの横で、ジェイクと男性は相談を始める。
「記憶喪失?」
「いや。逆行性健忘、その中でも主に個人的な情報を対象とする部分的な記憶障害っていうのが正確かな。陳述記憶も全部欠損しているとは言えなくて――」
「ややこしいぞ、ジェイク。俺にも分かるように話せ」
「んんー、つまり今のエレナ嬢は、エレナ嬢個人としての記憶がすごく頼りないっていうこと」
「ますます分からん」
「記憶機能そのものが損傷しているわけではないんだ。ほら、さっきやってみせただろ。聞いたことを繰り返すことができるし、会話も成り立つ。今現在の記憶力は失われていない証拠だよ。それに一般的な物の呼称もおおむね覚えている」
ジェイクが指したものについて、それは「枕」、こちらは「本」など、エレナはすらすら答えることができた。
朝には日が昇るとか、人殺しは悪いことといった社会常識も損なわれていない。
ただ、過去の自分に起こったことや関わった人などについての記憶がない。
読んだはずの本の内容、貴族令嬢の必修科目である詩や楽曲。住んでいる地名なども、聞いたことがないとエレナは困惑顔で首を横に振った。国や王の名前、家族についてもだ。
「頭を打った影響だろうね。エレナ嬢、こちらの男性はオスカー・ウェスト子爵。見覚えは?」
ジェイクはそう言って、腕を組んでエレナを睥睨する銀髪の男性に手のひらを向ける。
「いいえ」
「彼と婚約していたことは」
「こんやく……? 嘘でしょう?」
先程からジェイクの質問に答えるたびに周囲がざわついたが、いっそうのどよめきが走った。
婚約者と言われてぽかんと口を開けるエレナに、名指しされたオスカーも目を丸くしている。
まさかとか、本当にとか、エレナを疑う声が多いが、現状が信じられないのはエレナのほうだ。
知らない場所で知らない人に囲まれて、自分のこともよく分からない。
呼ばれるから返事をしているが、エレナという名にだって馴染みはないのだ。
不安でいっぱいなのに倒れずに済んでいるのは、最初からベッドに横になっているからなだけ。
それと、目を覚ます直前まで見ていた、誰かの人生の一部をなぞった夢が鮮やかすぎたおかげだ。
――夢の中のエレナは貴族ではない、普通の女性だった。
今、鏡に映っているミルクティー色の長い髪、白い肌の娘ではなく、健康的に日に焼けて濃い金の髪をしていた。
目の形は似ていなくもないが、今の瞳はよくあるヘーゼルで、夢の自分は角度によって紫に見える珍しい色をしていた。
(夫は、家具職人だったわ)
手製の家具に囲まれた素朴な家で二人で慎ましく楽しく暮らしていた。
自宅は工房を兼ねており、常に木の香りがする中で夫が作ってくれた揺り椅子に腰掛けるのが好きだった。
最後に見えたのは、まだ若い自分が息を引き取るところ。
彼女の体から抜け出たエレナは、泣いて遺体に取り縋る夫を触れられぬ腕で抱きしめて――そこで目が覚めたのだ。
(あちらが本当で、こっちの世界が夢のようなのよね)
細部は鮮明なのに全体像は靄がかかったようで、夢を見ていたのだと分かるし、今のこちらが現実なのだと理解はできる。
しかし、記憶をなくしている実感はない。
だってあの夢の中で確かに自分は生きていたから。
いきなり引き戻された「今」にまだ心がついていかないが、困惑しているのはエレナだけではないようだ。
「芝居ではないのか」
「オスカー、僕の見立てを疑うの?」
「そういうわけでは……」
端正な顔に似合う冷たく懐疑的な声音と、医師として淡々と話すジェイクの説明が耳に入る。
「患者の虚言はそうと分かるよ。エレナ嬢は、今は嘘を言っていない」
「
「本人に作為はなくとも、生活していく上で不安があったり、覚えていないことの辻褄を合わせようとしたりで、記憶障害の患者が事実と違うことを口にするケースは多いんだ。だから今後は分からないけど、現時点で彼女が嘘をつく必要はないからね」
「……そうか」
「パニックも起こさせないで問診できたのに。これで誤診だと言われたら、医師として僕の立つ瀬がないんだけど」
「分かった、ジェイク。悪かった」
拗ねた口調になったジェイクに、オスカーも素直に謝る。仲が良い二人のようだ。
「それで、記憶は戻るのか?」
「うーん、それはなんとも。病気が原因ではないからこれ以上記憶障害は進まないだろうけど、先を予測するのは難しいな。それこそ、子供の頃からよく知っている人……彼女の家族とかに会ったら思い出すかもしれないし、やっぱり思い出さないかもしれない」
ジェイクの言葉に頷きつつも、オスカーは黙り込んでしまった。
しげしげとこちらに寄越す疑わしそうな視線は、面倒な荷物を降ろし損ねたとでも言いたげである。
(エレナは厄介者だったようね。婚約破棄とも言っていたし)
なんだか気の毒に感じるが、元凶は自分らしい。
「なんにせよ、しばらく様子を見る必要があるね。今のところ脳内出血の症状はないけど、念のため一晩はこのまま動かさないほうがいいだろうな。ご家族への連絡は――」
「今知らせても行き違いになるだろう。そちらは俺のほうで手配しておく」
「そう。じゃあ、もしなにかあれば、夜中でもすぐに連絡して」
「ああ」
メイドにも細かく看護の指示を出して、白衣を脱いだジェイクが部屋を出る。
先に飲まされた痛み止めが効いてきたエレナがまた眠りに落ちる前に見えたのは、何度目か分からない溜息を吐くオスカーだった。
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