三話

「今夜も静かでいい夜だな……」


 寝静まった街の路地を俺は歩き進む。月明かりが照らす辺りに人影は見当たらず、俺の足音だけが孤独に響く。よそ者はいなさそうだな――俺は通り過ぎる路地を注意深く見ながら歩いてた。夜食の買い出しのついでに変なやからがうろついてないか、こうして見ながら歩くのが癖になりつつあった。そのきっかけはもちろん、偶然助けたあの金持ち女だ。


「そういや、あの日もいい夜だったな……」


 夜食のサンドウィッチを買った帰り道、物音を聞いて入った路地で女が追い剥ぎに襲われてたんだよな。あれから何日か経ったけど、追い剥ぎの二人組はあれ以来見かけてないし、住人が襲われたって話も聞いてないし、もうここには来て――


「いやあ! 誰か!」


 その時、前方から女の悲鳴が聞こえた。こんな真夜中に女? 何か以前と同じような状況だな……いや、まさかな――頭にちらつく金持ち女を振り払い、俺はとりあえず声のしたほうへ駆けて行った。一体どこから聞こえて――


「うわっと……!」


 狭い十字路を突っ切ろうとした瞬間、右から人影が飛び出してきて、俺は咄嗟にそれを避けた。危うくぶつかるところだった。


「たっ、助けてくださいませんか!」


 その飛び出してきた中年女が焦った声で俺の腕にすがってきた。顔も恐怖で引きつってる。悲鳴はこのおばさんが上げたらしい。だがその後ろに隠れるように立ってたもう一人の人影を見て、俺は驚いた。


「……あんたは……!」


 声をかけると、向こうもすぐに気付いたようでこっちを見た。一瞬目が合い、女の緑色の瞳が大きく見開かれる。が、顔をそらした女はまたすぐにうつむいてしまった。……間違いない。あの時、俺が助けてやった金持ち女だ。しかし何なんだ? どうしてこいつは夜中にこんなところを出歩きたがるんだよ。前のことで懲りてないのか?


「なあ、あんた達何でここに――」


「あそこだ! いたぞ!」


 右の路地の奥から男の声が聞こえた。それを聞いたおばさんは俺の腕にすがりながらビクッと震えた。この二人を狙ってるやからか。説教してる暇はなさそうだな。


「俺から離れて、下がってろ」


「は、はい」


 俺から手を離したおばさんは、金持ち女と一緒に背後の壁まで下がった。……本当に、まさかだな。同じ女をもう一度助けることになるなんて。


「逃がさねえぞ。身ぐるみ剥がしてや……!」


 真っ暗な路地から出て来た男は、俺の顔を見るや否や威勢のいい言葉と共に動きを止めた。殴る気満々で身構えてた俺も、月明かりに照らされたその顔を見て、思わず止まってしまった。


「あ……」


 男の顎ひげを生やした顔が気まずそうに歪む。こんなことってあるんだろうか。もう一度助けた女を襲ってたのが、俺が追い返した同じ追い剥ぎの男だなんて。


「おい、何突っ立って――」


 追い付いたもう一人の男が後ろから顔をのぞかせた。二人、ということは、当然もう一人の顔も見覚えがあるやつだ。坊主頭の――


「……なっ!」


 その坊主の男も、俺に気付くと驚いた声を上げて後ずさった。


「俺のこと、忘れちゃいないようだな……?」


「何で、またいるんだ……」


「それはこっちのセリフだろ。前に出て行けって言ったよな。それとも、俺達の許可、取ったの?」


「ぐ……」


 追い剥ぎ二人組は動揺したように目を泳がせてる。


「答えないってことは、取ってないってことだな……じゃあ、俺に殴られても文句はないよな。お前達が決まりを無視したんだから」


 俺は拳を握りながらジリジリと二人に近付いた。


「……くそ、引くぞ」


 坊主の男が言うと、顎ひげの男は苦い顔で踵を返し、二人は路地の暗闇へ消えて行った。前回のことで、どうやら俺の強さが身に染みてくれたようだ。おかげで無駄な時間を使わずに済んだな。


「あの、助けていただき、ありがとうございます」


 振り返ると、おばさんは安堵した様子で丁寧に礼を言った。その後ろに隠れる金持ち女は、相変わらずうつむいて無言のままだ。……まったく、もう一度注意しないといけないのか。


「あんた達さ、こんな時間に何しに来たんだよ」


「ある所用がありまして、そのために」


「所用? 昼間だっていいだろう。わざわざ夜中に――」


「この時間でなければいけないもので。大変ご迷惑をおかけいたしました」


 金持ち女と違って、このおばさんはハキハキしゃべってくれて話ができそうだ。


「まあ、時間を変えられない用事ってんならしょうがないけど……ところであんた、後ろの女とはどういう関係なの?」


 そう聞いた途端、おばさんの目がキッと吊り上がった。


「女などと、失礼な呼び方はおやめください」


「いや、俺、そいつの名前知らないし――」


「そいつ、もおやめください」


「で、でも、それじゃあどうやって呼べば……」


「そちらの女性、と呼んでいただければいいのです」


 はー、なるほどね……。


「じゃあ、そちらの女性、とはどういう関係で?」


「私はお世話をさせていただいております」


 世話係……金持ちらしい付き添いだな。


「いつも側にいる人間なら、そちらの女性にきつく言ってくれないか? ここへは来るなってさ。これで二度目なんだぞ。助けるのも注意するのも」


 これにおばさんは小首を傾げた。


「え? 二度目、とは?」


「前に助けたんだ。そちらの女性を。今日みたいに真夜中の時間、追い剥ぎに襲われてるところをね」


「ほ、本当なのですか?」


 おばさんは後ろの女に問いかける。と、女はおばさんの耳元に顔を近付けて、何やら耳打ちをし始める。それを聞くおばさんの顔が見る見る驚きに変わり、丸くなった目が俺をじっと見つめた。


「この、お方が……このような偶然があるとは」


「本当だよ。すごい偶然としか――」


「失礼ですが、お名前は何と仰いますか?」


「え? ああ、アレクシスだよ」


「アレクシス様……だそうですよ」


 おばさんは聞こえてるはずの後ろの女になぜか伝える。それに女はかすかに頷き、さらにうつむいた。……耳が悪いわけじゃないよな。前の時はそんな様子なかったし。


「ではご紹介いたします。こちらはエレオノール様です。ちなみに私はヘレネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


「はあ……」


 別に名前なんか聞いてないんだけど……どうぞよろしくと言われてもな。


「えっと、じゃあヘレネさん。所用とやらが済んだら真っすぐ帰ってくれよ。それで夜中にこんなところを歩き回らないよう、そっちの……エレオノールさん? に強く言っておいてくれ。それじゃあな……」


 そう言って俺は立ち去ろうとすると、すぐに呼び止められた。


「お待ちください」


「……何だ?」


 おばさんは俺に近付いて言った。


「何か、助けていただいたお礼をさせてくださいませんか?」


「いいって、そんなの」


「ですが、これではこちらの気が済まないので……ご一緒にお食事でもいたしませんか?」


「食事? いや、それは――」


「この時間に開いているお店があるかどうかわかりませんが、もしよろしければ行き先はアレクシス様にお任せいたしますので。いかがでしょうか」


「でもなあ、俺、これから夜食を買いに行くところで……」


「ではちょうどいいではありませんか。代金はもちろん支払わせていただきますので、そちらでぜひ腹ごしらえをしてください」


「俺は助かるけど……」


 待ってる家族の夜食を買わないといけないからな……。


「お時間は取らせません。ほんの束の間でもいいのです。どうか、ご一緒に」


 おばさんは懸命にお願いをしてくる。何でここまで礼を、俺に食事をおごりたいのか。金持ちの礼儀ってことなのか、それとも見栄や自尊心ってやつなのか? よくわからないけど、こんなにお願いしてくるし、時間は取らないっていうなら、まあ、おごってもらってもいいよな……。


「……じゃあ、わかったよ」


「本当ですか! ありがとうございます。……エレオノール様、よかったですね」


 おばさんは後ろの女に笑いかける。それに女もうつむきながら、少し笑ったようだった。……金持ちはやっぱり、金を使えることが楽しいのかね。


「この時間、食事もできる酒場があるから、そこへ行こう」


「わかりました。では私達は付いて行きますので」


 俺は二人の女を引き連れて来た道を戻って行った。仕方ない。買い出しはまた後だ。


 暗い道を進んで行くと、その脇にぼんやりと灯るランプの灯りが見える。そして周辺には人影も見え始める。立ち話してるやつ、一休みしてるやつ……その半分ぐらいは多分、俺達の賭場目的の客だろう。そしてもう半分は、今向かってる酒場の客だ。


「……ほら、あの酒場だ」


 さらに進んだ先に見えた灯りの漏れ出る建物――幸運のうさぎ亭を示す。


「随分と、人が多そうですね……」


 おばさんが見ながら呟いた。酒場の前には大声を上げたり、地べたに寝転んでるやつが何人もたむろしてた。


「ああ、でも気にしないでくれ。あいつらはただの酔っ払いだから。中に入れば落ち着いて食えるはずだ」


 いくら客でも、迷惑行為を繰り返すやつは店の外へ叩き出す。それが酒場の店主の方針だ。つまり店の前にたむろしてるのは全員叩き出された客ってわけだ。今日も傍迷惑なやつが多かったんだな。


「おら、邪魔だ。どけって……さあ、入って」


 俺は寝転ぶ酔っ払いを蹴散らして二人を中へ入れた。


「まあ、見た目より広いお店ですね」


 おばさんは明るい店内を見回しながら言った。同じように金持ち女も物珍しそうに視線を動かす。ここは小さなカウンター席と六つのテーブル席、あと個室席が二つある。今はテーブル席で飲む客しかいないようだ。迷惑客が追い出されたおかげか、店内はほどほどの活気で満たされてる。


「ようアレク。珍しく一人じゃないんだな」


 カウンターの向こうからジョサイアが声をかけてきた。こいつは俺の従兄で、この幸運のうさぎ亭を任されてる、ベルトロ一家の一員だ。ここの酒の仕入れと料理作りは、ほぼすべてこいつ一人でやってて、俺達家族は毎日のように世話になってる。俺より三歳上なだけで全然若いのに、その器用さや頭の回転、さらには腕っ節もあって、俺は一家の将来を担えるすごいやつだと思ってる。でも本人は忙しく酒場を切り盛りしてるだけのほうが性に合ってるとかで、一家をどうこうしたいとはまったく考えてないらしい。いいやつだし、ジョサイアなら皆付いて行くと思うんだけどな。無欲なのがもったいない。


「女連れか……で、どっちが本命だ?」


「どっちも違う! 追い剥ぎから助けてやった礼に食事をおごってくれるって言うから来たんだよ」


「助けたなんて、かっこいいことするね。お前ももう、助けてもらうガキじゃないんだな」


「俺はとっくにガキじゃないし。……料理、手早くできるのを適当に持って来てくれるか?」


「了解。酒はどうする?」


 俺は二人に目で聞いた。


「私は水で結構です。エレオノール様はどういたしますか?」


「……私は、葡萄酒を……」


 金持ち女はやっと聞こえる声で答えた。


「じゃあ、水と葡萄酒を頼むよ」


「わかった。奥のテーブル席が空いてる。そこで待っとけ」


 ジョサイアに言われて俺達は奥へ向かう。


「ちょっと待った」


 すると後ろからジョサイアが小さな声で俺だけを呼び止めた。


「……何?」


「あの二人、ここの人間じゃないのか?」


「見ての通りだ。金持ちの娘と、その世話係らしい」


「金持ちか……それ目当てに、何か引き出す計画でもあるのか?」


「ないって。これは単なる成り行きだ。おごってもらったら終わりだよ」


「そうなのか? 残念。面白いことでもするのかと思ったのに」


「そういうのは親父の役目だ。俺はそういう小難しいことできないから」


「そうだったな。……うーん……」


 ジョサイアは奥の席に向かう二人の姿を眺めながら考える素振りを見せた。


「外からの人間が気になるか? まあ、こんなところに滅多に来るような人間じゃ――」


「そうじゃなくて、さっき若い女のことを、エレオノールって呼んでたよな」


「ああ。それが名前だから。……それが?」


「前にどこかで聞いたことがあるような気がしてさ。何だったかな……」


「……初恋の人の名前とか?」


「そんなの忘れるわけないだろうが。俺の初恋の女は――ったく、まあ、名前なんてどうでもいいか。悪いな。すぐに作るよ」


 ポリポリと頭をかきながらジョサイアは調理場へ消えて行った。初恋の女と聞かれて、さすがのジョサイアも照れたか。


「……何か、問題でもありましたか?」


 奥のテーブル席へ行くと、先に並んで座ってたおばさんが心配そうに聞いてきた。


「違うよ。あいつ俺の従兄でさ、ちょっと世間話してただけ。料理はすぐ来るから待ってて」


 そう言いながら俺は二人の向かいの席に着いた。


「では、このお店はご親戚が営まれているのですね。どうりで親しげに話されていると思いました」


「まあね。ここはガキの頃は遊び場で、大人になってからは腹を満たしてくれる行き付けの酒場なんだ」


「そうですか。……エレオノール様、何かお話しされたいのでは? 私ばかり話していても仕方がありません」


 おばさんに言われた金持ち女は、視線を泳がせながらゆっくり顔を上げると、ようやく正面から俺を見て口を開いた。


「大人と仰いましたけど、まだ、お若いですよね? おいくつ、なんでしょうか……?」


 どことなく潤んだような緑の目が俺をじっと見つめて聞いてくる――な、何か、そんなに見られると話しづらいな。


「十八、だけど、あんたも若い――」


「同じです!」


 急に声が大きくなって、俺は思わず止まった。


「……何が?」


「年齢です! 私も、十八歳です!」


 女はニコニコしながら言った。同い年の何がそんなに嬉しいんだ……?


「あ、ああ、やっぱり。俺と近い歳だと思ってたんだ」


「水と葡萄酒ね。どうぞ」


 やって来た給仕係の男が葡萄酒の瓶と三人分のコップを机に並べた。コップの一つにはなみなみと水が入ってる。


「ありがとう。……この水はあんたのだね」


「恐れ入ります」


 おばさんは静かにコップを受け取る。次に俺は二つのコップに葡萄酒を注ぎ入れた。


「ここの酒は安くて美味いんだ。あ、でもあんたが普段飲んでる酒と比べたら、味は大分落ちるかもしれないけどな」


「そんなことはありません。アレクシス様が美味しいのであれば、私も美味しいと思えるはずです」


 俺から葡萄酒を受け取りながら女は笑顔で言った。


「いやいや、俺とあんたの舌じゃ、美味しさの感じ方が全然違うだろう」


「なぜですか? 同じ人間です」


「そういうことじゃなくて、環境ってことだよ。あんたは毎日贅沢な物食ってそうだ。だから庶民の味なんて受け付けなさそうに思えてさ」


「贅沢な物など、毎日は食べていません。そういう物は特別な日のみに食べる物ですから」


「特別な日?」


「たとえば誕生日とか、宴の場とか、王国の記念日とか……」


 俺はコップを傾けながら鼻で笑った。


「ふっ、いかにも金持ちらしい構成だな。俺達には無縁なものばっかりだ」


「そんなことはないでしょう。誕生日をお祝いしたり、記念日の祝日に皆で集まって――」


「ここで暮らすやつは、誰かの誕生日を祝う余裕なんかないよ。そもそも自分の誕生日を知らないやつだっているんだから。記念日ってのも、俺達は教えてもらわないと知らない。まあ、教えてもらったところで神様や聖人なんて本当にいたか怪しいやつをわざわざ祝う義理はないと思うけどね」


「アレクシス様は、随分と冷めたお考えをお持ちなのですね」


 おばさんが眉根を寄せた表情で言った。


「気分を悪くしたら悪かった。でもあんた達みたいな金持ちは俺達庶民の実情をあんまり知らないみたいだからさ」


「その、私達はお金持ちというわけでは……」


「金持ちじゃなきゃ、そんな指輪も首飾りも着けられない。だから追い剥ぎにも狙われたんだ」


 俺が指摘すると、女はハッとした顔で自分の首元と指に触れた。


「金を持ってないっていうなら、あんたは一体何者だ? 俺にはどこかの令嬢とか、何不自由なく暮らしてるお嬢様にしか見えないけど」


「いえ、私は――」


 言いかけて、女は黙り込んでしまった。そして隣のおばさんと顔を見合わせる――俺なんかに素性は明かせないってことかな。


「言わなくてもいいよ。俺が知ったって何の得にもならないし」


「ご、ごめんなさい。こればかりは言えなくて……そういうアレクシス様は、普段何をなさっているお方なのですか?」


「俺は、家族で雑貨屋をやってる」


「雑貨屋、とは?」


「いろんな日用品を売ってる。文房具、石鹸、フライパン、下着とか」


「まあ、たくさんの種類の物を売っているのですね。面白そう……この辺りにお店が?」


「ああ。少し歩いた向こうにある」


「ぜひ見てみたいです! 案内、していただけませんか?」


「そ、それは無理だ。この時間、開けてないし……」


 今は賭場のほうで忙しいんだ。外の人間にこの存在を知られるわけにはいかない。


「確かに、そうですよね。昼間でなければ普通開いていませんよね……ではいつか昼間の明るい時間に、アレクシス様の案内で――」


 その時、横からプフッと笑い声が聞こえて俺は振り向いた。


「アレクシス様って、お前、何て呼ばれ方してんだ?」


 そこには作りたての料理を持って笑うジョサイアがいた。


「べ、別に、俺が呼ばせてるんじゃないって。この二人が勝手にそう呼んでて……」


「あの、お名前はアレクシス様で合っているのですよね?」


 女が不安げにジョサイアに聞いた。


「そうだよ。こいつはアレクシスだけど、様を付けて呼ぶような大層なやつじゃない。もっと気楽に呼んでやってくれ」


「気楽とは、どのようにですか?」


「アレクでいい。皆そう呼んでる」


「アレク、様……?」


「だから様もさんもいらない。アレク。呼び捨てでいいんだよ」


 戸惑った顔が俺のほうを見た。


「……そうお呼びしても、不快ではありませんか?」


 これにジョサイアは笑いをこらえてた。俺のせいじゃないのに、何でこんな恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだよ……。


「様付けで呼ばれるより、アレクのほうが何倍もいい。だからそう呼んでくれ」


 そう答えると、女は微笑みを浮かべた。


「アレク……では、私のこともエリーとお呼びください」


「エレオノール様! それは――」


 おばさんが意見しようとしたのを、女は手で制した。


「だって、お互いが気楽に呼び合えたほうがいいでしょう? ……エリーという呼び方は、亡き母だけがしてくれたの。それぐらい、親しい気持ちになってくれたら、私はとても嬉しいから……」


 母親を亡くしてるのか……金持ちでも、不幸は平等に来るんだな。


「こいつと親しくなりたいなら、この料理を一緒に食えば、すぐに仲良くなれるかもな」


 ジョサイアは机に、鶏肉の黒胡椒炒めを置いた。立ち上る香辛料の香りが食欲を刺激してくる――この料理だけは、毎度見るたびによだれが出てくるんだよな。


「これはこいつの好物で、店の人気メニューでもある。ガブリと噛み付いて食べてくれ」


 戻って行くジョサイアを見送り、俺は早速鶏肉の塊を取った。骨付き肉から滴る油が肉の表面を美味そうに光らせてる。そこにまぶされた黒胡椒が美味さの期待値を上げる――ガブッと噛み切った肉を口に頬張れば、すぐに安定の美味さが広がって行く。はあ、たまらない味だ。


「……食わないのか?」


 ふと見ると、二人は鶏肉を見つめるだけで食べようとしてなかった。


「鶏肉、苦手だった?」


「いえ、そうではなく……その、手づかみで食べるというのは、いかがなものかと……」


 おばさんが険しい顔で言った。金持ちってのは面倒くさいね……。


「こんな骨付き肉、フォークとナイフ使ってたら時間かかって食った気がしないだろう」


「しかし、エレオノール様にこのような食べ方をさせるのは――」


 おばさんが話す横でおもむろに伸ばされた手は、皿の鶏肉をつかみ、そして躊躇なく噛み付いた。


「エ、エレオノール様! 何をなさって――」


「この鶏肉、とても美味しいわ!」


 小さな口がもぐもぐ動き、飲み込み、また噛み付く。金持ちが行儀なんか気にせず思うまま食べる姿は、何だか見てて爽快な気分になる。


「そうそう。そうやって食えばいいんだ。な? 美味いだろう?」


「ええ。柔らかくて、しっかり味も付いていて、初めて食べる料理ですけど、皆さんはこんなに美味しいものを食べているのですね」


「口に合ってよかったよ。ジョサイアに言えば、きっと喜ぶな」


「ほらヘレネ、あなたも食べてみて」


「手を油まみれにして食べるなど、私は……」


「油なんて拭けばいいのだから。一つだけでも食べてみて。さあ」


 勧められたおばさんは、しかめた顔で渋々鶏肉をつまみ上げた。まるで汚いものでも触るような手付きで、肉の端に小さく噛み付く。その直後、予想以上の美味さだったのか、目を見開いたおばさんは無言のまま、ガブガブと肉を食べ続けた。その様子からは、自分が手づかみで食べてることなど忘れてるようだった。誰しも美味いものを前にすると我を忘れるようだ。


「……ふう、ごちそうさまです」


 気付けば皿の鶏肉は全部骨に変わってた。二人は満足そうな顔で食事を終える。俺もそこそこ腹は満たせたかな。


「じゃあ、出るか」


 俺が立ち上がろうとすると、女が話しかけてきた。


「あ、あの!」


「……ん、何?」


「近いうちに、また、うかがってもいいですか……?」


「ここが気に入ったの? 別にそれはあんたの勝手で――」


「いえ! あ、はい。料理は確かに気に入ったのですけど、私がうかがいたいのはお店ではなくて……アレク……あなたのことで……」


「俺? 俺に何か用でもあるの?」


「用はありませんけど、何か、お話しできたらと思って……」


 女はうつむきながら言う。俺は話したいことなんて何にもないけど。


「話し足りないことでもあるのか?」


 そう聞くと、女は急に顔を上げて力強く言った。


「ええ、それはもうたくさん!」


 見つめてくる真っすぐな眼差しを受けて、俺は少しだけ面食らった。


「……あ、そう。じゃあそれは、次の機会に――」


「うかがってもいいのですね!」


 期待と喜びを見せる女だったが、俺はそれを止めて言った。


「他人の行動に文句付ける筋合いはないけど、あんたは金持ちで、二度も追い剥ぎに襲われてるんだ。俺の意見としちゃ、この西地区に来るべきじゃないと思ってる。俺が助けたのだってすごい偶然なんだ。毎回助けるなんて不可能だし」


「危険だから、来るなと……?」


「そうだ。それでも来たいって言うなら、せめて昼間にするべきだな。夜中よりは多少危険も少ないはず……いや、大して変わらないか?」


「私が自由になれる時間は夜しかないのです。ですからうかがえるのはこの時間帯しか……」


「じゃあ、身ぐるみ剥がされる覚悟で来るんだな。それか、追い剥ぎから守ってくれる用心棒でも連れて来れば?」


「用心棒……つまり護衛ですか?」


「ああ。強いやつがいれば安心だろう? あんたなら雇うことだってできそうだし」


「なるほど。護衛を付けるのですね……ありがとうございます。参考にしてみます」


「言った通り、ここはあんたにとって危険な場所なんだ。別に無理して来ることないし、俺は来ないほうがいいと思ってる。それはわかってくれよ? じゃあ、行くか」


 約束通り、おばさんは食事の代金を支払い、俺はジョサイアに一言挨拶してから酒場を出た。


「帰り道も気を付けろよ」


「はい。それでは、また」


 柔らかい笑顔を残して、女はおばさんと共に暗い道を帰って行った。その小さな背中を見送ってると、何だか心配な気がしてくる。一応、西地区出るところまで送ったほうがいいかな。どこにどんなやからがいるかわからないし……いや、そんな面倒見る義理はないか。危険を承知であの二人は来たんだ。外の人間のことなんてどうでもいい。よくわからない金持ちなんか……。


「……エレオノール……エリー、か」


 いかにも世間知らずっぽい感じはあるけど、金持ちにしてはあんまり嫌な印象はない女だった。前回会った時とは違って、今日は結構話してくれたし。笑った顔も、まあ、悪くない。可愛いって言える女だ。本当にまた、ここに来るんだろうか……。


「……何考えてるんだ、俺……」


 ふと我に返って、俺は頭から女の顔を振り払った。他人のことなんかどうでもいいんだって。夜食も食ったし、早く仕事に戻らないと――賭場に向けて歩き出した時、俺ははたと思い出した。


「あっ、親父達の夜食、まだ買ってなかった……!」


 踵を返した俺は急いでサンドウィッチを買いに走った。戻ったら遅いって、絶対どやされるんだろうな。後回しにしたのは自分だけど……もうすでに気分が重いよ。

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