二話

「――それじゃあ俺は行くよ。あんたも真っすぐ帰れよ」


 男性にそう言われたけれど、私は返事も、顔を見ることもできなかった。踵を返した男性の後ろ姿をちらと見る。落とした何かを拾い上げて、そのまま路地を遠ざかり、そしてすぐに姿は見えなくなってしまった。行って、しまった……。


「はあ……!」


 私は後ろの壁に倒れかかった。緊張が解かれて、やっとまともな呼吸ができる。胸を押さえると、その手に激しい鼓動が伝わってくる。こんなにドキドキしたのは、生まれて初めて……。


 男性が消えた路地の先をぼーっと見つめる――もっとお話しをしたかった。でも二人きりになると緊張が高まり過ぎてまともに声も出なかった。ああ、お名前をお聞きしたかった。せめて助けてくれたお礼は言うべきだった。何も言わない私を見て、男性はきっと変な女だとか、恩知らずな女だと思ってしまったかもしれない。けれど本当は違うの。私は話したかったし、お礼も言いたかった。でもお姿に見惚れて、そんな自分が恥ずかしくて、戸惑ってしまって、黙ってうつむくことしかできなかった。今はただ後悔するばかり……。


 一目惚れ――世の中にはそういう恋に落ちることもあると聞いているわ。私はまさしくそれなのだと思う。追い剥ぎから助けてくれた男性が向けてくれた優しい表情……それを見た瞬間、心臓に杭でも打ち込まれたかのように全身に衝撃が走った。目が合えば、鼓動が聞こえてしまうのではと心配するほど胸が大きく高鳴った。こんな気持ちは二度と感じられないような気がする。だから直感的にわかった。あの男性こそ、私の運命の人……そうに違いないと。


 身も心もフワフワした感覚のまま、私はゆっくり歩き出す。できれば時間を巻き戻したい。そしてお顔を見つめて、お礼を述べて、お話ししたい――どうしようもない後悔が胸をギュウギュウと締め付けて私を苦しめてくる。


「――エレオノール様!」


 路地を出ると、遠くのほうで私を呼ぶ声が聞こえた。通りの先を見れば、小走りに向かって来る人影があった。


「どこにおられるのですか、エレ――はっ、エレオノール様!」


 辺りをキョロキョロ捜していた人影――侍女のヘレネは、私を見つけると勢いよく走ってやって来る。


「はあ、はあ……ど、どこにおられたのですか。ずっとお捜ししていたのですよ?」


 呼吸を乱しながら、ヘレネは困り顔を私に見せた。


「側から離れてもらっては困ります。この辺りはあまり治安のよくない地域なのですから、万が一危険に遭われてしまったら――」


「もう危険には遭ったわ」


「はあ、そうで……はい? 今、何と?」


「つい先ほど、向こうの路地で追い剥ぎに遭ったの」


 そう言うとヘレネの顔面は見る見る青く変わった。


「お、追い剥ぎ? 本当なのですか、それは!」


「ええ。でも――」


「ああ! 心配していたことが起きてしまうなんて! 何を奪われてしまったのですか? いえ、それよりお怪我などはございませんか? 狼藉を受けては――」


「待って。落ち着いてちょうだい」


「落ち着いてなどいられますか! エレオノール様がそんな目に遭われていたのに――」


「私は大丈夫だから。怪我もないし、取られた物もないわ」


 これを聞いたヘレネは怪訝な目で見てきた。


「……お怪我がなかったのは一安心ですが、取られた物が、ないのですか? 追い剥ぎに襲われながらも?」


「ええ。なぜなら助けてくださったの。ある男性が」


 私はあの時見た優しい顔を思い浮かべながら言った。


「男性、ですか?」


「追い剥ぎの二人組に追い詰められて、指輪や首飾りを奪われ、もう絶体絶命という時だったわ。その方は突然現れて、追い剥ぎを殴り倒し、追い返してしまったの」


「まあ、殴り倒すだなんて、さぞ恐ろしかったでしょう」


 私は首を横に振った。


「いいえ。男性は私を助けるために拳を振るってくださったの。だから怖いだなんて思わなかった。それよりも、その勇敢さに感じ入っていたわ。相手は二人なのに尻込みすることなく、終始落ち着いた様子で、追い剥ぎに取られた物を全部取り返してくれたのよ」


 そして、首飾りが上手く着けられない私を見て、そっと手伝ってくれた……ああ、何て優しい方……。


「ここに、そのような親切な方がいらっしゃるとは、エレオノール様はご幸運でしたね」


「違うわ。これは幸運なのではない。運命なの」


「運命……?」


「私がこうしてこっそり城下に来た理由は何だと思っているの?」


「それは、確か、ジュノー様のお言葉をお聞きになって……」


「そうよ。今夜、城下の西地区へ行けば、運命の出会いを果たせる――そう言われたから来たの。そして言われた通り、運命の男性と出会えた」


「助けてくださった男性が、その運命のお相手だと……?」


「ええ、間違いないわ。あの優しいお顔を見た瞬間、すべての意識があの方に奪われたの。そんな感覚は初めてのことよ。一瞬の出来事だった……」


 思い返すたびに、胸の鼓動が繰り返し大きく鳴ってしまう。


「エレオノール様は、お言葉通りに本気で運命のお相手をお捜しだったのですね」


「ヘレネは冗談だとでも思っていたの?」


「正直に申せば、単なる好奇心によるものだとばかり……」


「好奇心がまったくないとも言えないわ。運命の人に会えるのなら、ぜひ会ってみたいという気持ちから始まったから。けれど今は大真面目よ。私は運命の、あの男性のことをもっと知りたいと思っているわ」


「お名前はお聞きになったのですか?」


 ヘレネの問いに、私は思わず溜息を吐いてしまった。


「それが……何も……」


「運命のお相手と確信なさりながら、何もお聞きしていないのですか?」


「だって、あまりに緊張し過ぎて、目も合わせられなかったから……」


「エレオノール様でも、そういうお相手を前になさると、普段の調子がお出にならないのですね」


 どこかからかうような口調に、私はヘレネをねめつけた。


「わ、私だって、乙女心を持つ女よ。恥ずかしくてしゃべれないこともあるわよ」


「そうですね。失礼いたしました。しかしそうなると、その男性のことを知りたいと仰っても、どこの誰だかわからなければ知りようがありませんね」


「そうなのよね。だから私は今、ものすごく後悔しているのよ。恥ずかしがらずに、しっかり話していればって……ヘレネ、お願いがあるの」


「何でしょうか」


 私はヘレネの目をじっと見据えて言った。


「あの方を、一緒に捜してくれないかしら」


「もちろんエレオノール様のために捜したい気持ちはございますが、この西地区は広く、危険もあって、私などの力で果たして捜し出せるかどうか……」


「大丈夫よ。男性はほんの数分前にここを去ったばかりだから、きっとまだ近くにいるはずだわ。さあ、急いで辺りを――」


 歩き出そうとすると、ヘレネが腕をつかんで止めてきた。


「お、お待ちを。まさか、今すぐお捜しになるおつもりですか?」


「当たり前じゃない。まだ近くにいるとわかっているのだから、早く――」


「それはさせられません。お捜しになるのなら日を改めましょう」


「何を言っているの? 早く捜さないと男性が――」


「はやる気持ちはわかりますが、御身のこともお考えください。つい先ほど追い剥ぎに襲われているのですよ?」


「危険だと言うの?」


「そうです。ここは衛兵が守る中央地区ではなく、城下で一番物騒な西地区です。凶悪な賊や無法者が潜んでいないとも限りません。そもそも、エレオノール様が強くご希望なされたから私は渋々お供したわけで、本当を申せば、このようなところにエレオノール様をお連れしたくはなかったのです」


「ヘレネは、本当は私と来たくなかったのね……」


「勘違いなさらないでください。私はお供なら喜んでいたしますが、危険な場所へお連れしたくはないと申しているのです」


「でも、ここに運命の人がいて、私は見つけてしまったのよ。追えるうちに追わないと見失ってしまうわ」


「それでも、危険に遭われてしまった以上、エレオノール様をここにお留めするわけにはいきません」


「そんなこと言わないで。ヘレネ、お願いだから……」


「また賊に襲われても、二度目も助かる保証はありません。今夜はもうお帰りになってください」


「あの方を見つけたいのよ。もう少しだけ――」


「そのわがままは聞けません! これはエレオノール様のためなのです!」


「ヘレネ、お願いを聞いてよ、ヘレネ――」


 しつこく懇願してみても、ヘレネは駄目の一点張りで、私の腕を引っ張って強引に暗い道を帰らせた。後ろ髪を引かれながらも、私は諦めて運命の人と出会った場所を去るしかなかった。捜せば見つかったかもしれないのに……次に会えるのは一体いつになってしまうのかしら。


 翌日、私は晴れ渡った綺麗な青空を眺めながら、自分の部屋である人を待っていた。もう約束の時間よね。そろそろ来ても――


 コンコンと扉を叩く音に、私は反射的に振り返って駆け出した。そして急いで扉を開ける。


「! 姫様、な、何かお急ぎなのですか?」


 声をかける間もなく勢いよく開けた私に、目の前に立つ女性――ジュノーは目を丸くして驚いていた。


「あなたのことを待っていたのよ。さあ、中へ入って」


「あ、はい……失礼いたします」


 ゆっくり入って来るジュノーの手を私は引いてソファーに座らせた。


「……あの、何をそんなに急いでおられるのですか?」


 不思議そうに聞いてくるジュノーの向かいに座って私は言った。


「だから、あなたが来るのを待っていたの。昨日のことを早く話したくて」


「昨日、ということは……」


「ええ。……あなたが占ってくれた通り、私、こっそり城下へ行ったの」


「そうなのですか。実際に行かれて……」


 特に驚くこともなく、ジュノーは微笑んだ。そう、私を城下へ導いてくれたのは、まさに彼女であり、職業である占いなのだ。


 ルシール・ジュノー――彼女は今、王侯貴族の中で人気の高い占い師で、もともとは城下の片隅で細々と占っていたらしいけれど、すべてを見通したような的中率は街で瞬く間に評判となり、その噂は貴族にも伝わった。そして実力を体感した者達はこぞって彼女を支援し、専属の占い師にしようとした。けれど狙っていたのは貴族だけではない。王国王妃も実力を認め、自分の元に置こうと城内に彼女の部屋を作って与えた。そこまで熱意を見せられ、しかも王妃直々の願いではジュノーも断れなかったのだと思う。そんな経緯で彼女は現在、私と同じ城内で暮らしている。だから時々占ってもらう機会もあって、その時に運命の出会いを聞かされたのだ。


「あなたの言う通りのことが起きたの。城下の西地区、そこへ行ったら、運命の男性に出会えたのよ!」


「……え?」


 私の言葉に、ジュノーはぽかんとした顔を見せた。


「占い通りだったの! やっぱりあなたの占いはすごいわ。……どうしたの? いつまでも変な顔をして」


「い、いえ……本当に、運命の男性が現れたと?」


「そうよ。侍女を連れて行ったのだけれど、実は、はぐれた時に追い剥ぎに襲われてね。あ、これは内緒の話よ? その時に一人の男性が現れて、私を助けてくれたの。優しいそのお顔を見た瞬間、すべてがあの方に奪われた……別に追い剥ぎにかけてるわけではないわよ? 本当に心を奪われてしまったの。思い出すと今もドキドキしてしまう。あの男性こそが運命の人だと、私は確信しているわ」


 あの姿を思い浮かべながら話し、ふとジュノーを見ると、その顔は笑顔ではなく、何だか複雑な表情を作っていた。


「……あなたの占いが的中したのよ? もっと喜んでもいいのではない?」


「まさか、本当にそんな方と出会われるとは、思いませんでしたので……」


「何を言っているの? あなたが占ってくれたことでしょう? それとも、嘘の結果を私に伝えたとでも言うの?」


「う、嘘など、そのようなことは……ですが、あの占いは正直、自信があまりなかったもので、思わず驚いてしまって……」


「すべて的中させるあなたでも、自信のない結果を出すことがあるの?」


「皆様、買い被り過ぎです。すべて的中させるなど、神でもない限り不可能です」


「でもあなたは私達より、少しだけ特別な力を持っている。だから占いで皆をいいほうへ導けているのでしょう?」


「どうでしょうか。本当にそのような力があり、皆様を少しでも幸せにできていれば、私にとっては光栄なことですが……」


「駄目よ、そんな暗い顔をしては。もっと自信を持って。あなたには皆を幸せにする力があるのだから。私も、あなたの占いで幸せになった一人よ? 運命の人と出会えるなんて、そんな幸せなことはないでしょう?」


 ジュノーを見つめ、にこりと笑いかければ、自信なさげだった表情は笑顔を見せた。


「姫様……とてもありがたいお言葉、励みになります」


「ふふ、あなたは皆が認める素晴らしい占い師なのだから、自分を信じなければ。ね?」


「はい……そうですね」


 少しぎこちなくはあるけれど、ジュノーは私に笑顔を返してくれた。やっぱり彼女には自信のある顔で占ってもらいたい。


「というわけで、また占ってもらいたいのだけれど……」


「どうぞ。遠慮などなさらず、何でも仰ってください」


 そう言うとジュノーは腰にぶら下げていた小さな布袋を取り、その中の物を目の前の机に出した。コロコロと音を鳴らして色とりどりのいびつな石が転がる――彼女の占いは宝石占いと呼ばれ、無数の宝石の原石を一斉に転がし、その位置や石の向きなどで占いの結果を出す。原始的な方法だけれど、それでも的中させるのだから本当にすごい力を持っているとしか思えない。


「運命の男性に出会えたのはいいのだけれど、話すことができなくて、お名前を聞けなかったの。それはさすがにわからないわよね……?」


「はい。申し訳ございません。個人などの具体的な情報を探ることは、私の占いではできないことでして……」


「わかったわ。それでは……もう一度、あの方に会いたいの。いつどこへ行けば会えるか、それは占える?」


「日時や場所ならば問題ございません。では念を込め、占ってみましょう」


 ジュノーはすべての石を両手の中に収めると、目を瞑り、祈るように掲げる。そして聞こえない声で念を込めると、両手を開き、机に石を転がした。

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