第一章『夏休みまであとすこし』 ⑦


「いま、何時?」

 チョコを頬張りながら聞く可絵。

「えっとなー」

「あ、ごめんごめん、恋スマホ止まってるよな。バイト行くまであと十五分あるし、それまで話そ。ほんで、おかん、また出て行ったんや」

「うん、多分」

 多分というのは近頃はもう、家の中の状況を把握することも諦めていたからだった。

「ご飯は? どうしてるん」

「一応、どっちかがまとめ買いっていうか、冷凍庫にいろいろ入ってたり。あと、たまにまとめてお金置いてあるし、買い出し行ってる」

 そういえばまた買い出し行かないとな……と、言いながら思い出した。

「こんど、うちの店食べにきてほしいな。店長に言っとくからさ。サービスしてくれるはず。店長によく恋の話するから」

「へぇ」

 わたしについていったいどんなことを話しているのか、聞きたくて唾が出たけれど、言葉は音になる前に体の中にたちまち小さくなって退散してしまった。

「大家族って、どんな感じ?」

 わたしは聞いた。

 可絵は五人兄弟の末っ子。それぞれの兄弟について詳しく聞いたことはないけれど、「早く家を出たい」というのが可絵の口癖だった。

「そのまま、大家族って感じやで」

「ほんまにそのままやん」

 わたしは可絵のスカートについていたチョコをはらった。

「しいて言うなら、存在が消える」

「えっ、自分の?」

 それを言うならわたしの家やのに……と思いながら、まるで幽霊のようにお風呂に入ったり、歯を磨いたりしている自分を思い出す。一つの家に、たくさんの人がいるのに「存在が消える」なんてちっとも理解できない。

「うちのことなんて、みんなどうでもいいからな。うちもみんなのことなんか、どうだっていいし。あーあ、早くお金貯まらんかな。それか宝くじ当たらんかな」

 口の端にチョコをつけながら可絵は言う。

「宝くじかぁ。当たったらなにしよかなー」

 わたしは言った。

「家出」

 とっさに出た二文字。

「恋も家出? じゃあ誰もおらんくなるやん。恋の家」

「ほんまや。空き家になるわ」

「じゃあ、そこにうちらで住もっか」

 可絵が当たり前のように言ったから、聞き逃してしまいそうになったけど、「うちらで、住む」と、繰り返したわたし。

 もし、そんなふうにできたなら。ずっと暮らしていくにはわたしの家はもちろん無理だろうけど、可絵と、毎朝一緒に起きて、靴を履いて出かけて、帰ってきて、そんなふうにできたなら。

「恋、おい、恋?」

 顔の前を可絵のてのひらがひらひらと舞った。可絵との生活を描くのに夢中で上の空だったわたしは言った。「そうしよう? 可絵、そうしようさ」「え? 本気? そら、楽しいやろうけどさ。あ、バイト遅れる。じゃ、また明日な!」ぽんぽん、とわたしの膝をたたいて、可絵の姿はあっという間にとおくに消えていってしまった。

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