2 ビスタ
うるさい。
頭の上を飛び回るムクドリの大群がうるさい。
池下駅周辺は夕方になると山に帰る鳥たちで溢れかえり、同時に仕事終わりの人間が糞を躱しながら練り歩く光景が広がる。
自転車を漕ぐのを諦め押して歩く陽葵は、人混みにのまれながら何とか信号を渡り切った。
陽葵は人混みが苦手だ。
陽葵は脇道にそれてから自転車に跨り、全速力で陽波のもとに向かった。
陽葵と陽波の家。かけがえのないもの。玄関に転がる潰れたサッカーボールも崩れかけの押し花も全部陽波との思い出。陽波が手を洗っている間、陽葵は壁に貼ってある押し花を見る。
陽葵は昔、家を飛び出したことがある。
「あれ?陽波は?」
陽葵が小学生だった夏、陽葵は陽波がいないことに気がついて母に声をかけた。
「は?寝とんでしょ」
既に酒をあおっている母はしんどそうに生返事。
陽葵は、玄関の戸が開いているのを捉えると、そのまま捜しに出ていった。
大声で呼びながら、公園もスーパーも学校にも走り回って探す。汗が目に入ったってどうでもいい。
陽葵が行くことのできる範囲は探した。けれど見当たらない。
陽葵の頭に、最悪の事態がよぎる。
その時、風が吹いた。
強い風が、胸で浅い息をするだけの陽葵からまた何かを攫う。
その先を振り返ると、陽波が居た。
線路脇の茂みに横たわる陽波が。
走り出す陽葵の目には、不安と涙があった。
「陽波!陽波!!」
肩をゆする。いつも通りの陽波を望んで。
陽波は目を開けた。
そのまま陽葵に何かを差し出した。
花。
陽葵は花を受けとり、胸の前で握った。
陽葵も、陽波が普通の子ではないと伝えられてから別の人間になったのではないかと不安だった。でも陽波は変わらない。変わっていなかった。いつまでたっても陽葵の弟だ。
あの日の出来事は、陽葵に初めてそう思わせてくれた。
あの花は押し花として今もまだ飾られている。陽葵がひとりで色々こなせるようになったのは、この花のおかげ、いつまでもかわいい陽波を守ろうと思ったから。たとえ母の葬儀をすっぽかしてでも。
夜九時。
陽波を寝かそうと思った頃、陽葵の携帯が鳴った。一応、こんな生活でも何かと不便なため安物の型落ちスマホくらいは持っている。
「はい」
陽葵が電話に出ると、陽波のクラス担任の由子の声がした。
「ね、提案があるの。もしよかったら、今度の土曜、うちの学校に来てくれない?」
前置きもなしに話し始める由子。陽葵は一旦考える。
土曜日、特に何も予定はない。陽波を連れていけるなら行ってもいい。
「陽波を連れていってもいいなら」
「契約成立ね。午後二時半から。待っているわね!とりあえず、職員室に顔を出してくれればいいから」
そういっておやすみも言わずに由子は電話を切る。
何かが陽葵の心で跳ねた。
土曜日。
由子に指定された通り職員室にでてから通された部屋には学長が座っていた。
「うちの学校に入らない?」
陽葵が席についてコンマ数秒のはやさで放たれる。この学校の人間は前置きというものができないのだろうか。
学校の提案は、陽葵がこの学校に入学することで負担を軽減できるというものだった。
「うちの学校には寮がある。それに、自宅から通学でもスクールバスが分刻みで出ているよ」
確かに、買い物や宿題を鑑みると中学高校とこのままの生活は難しくなる時が来るだろう。送り迎えの手間が省けるのは陽葵にとっても悪い話ではない。
とはいえ、私立水原中高は私立の有名校。陽葵の学力と財力では到底無理難題だと思う。
「そこは大丈夫。学費は行政の支援を頼ろう。それに陽波くんのお兄さんなら、いくらか対処するさ」
学長が答える。この学校は特別支援学級の生徒から受け取る学費を、カリキュラム内容から考えるとかなり少なく設定していた。
それならありえなくもない話。
「スクールバスも便利よ?近くにはイオンもあるし」
由子が謎の付け足しをする。
陽葵はまた思案した。
陽波を数年間預けている学校。信頼はあるし、信じてみてもいいかなと思った。何にせよ入ってしまえばこっちのモノ。陽葵は頷いた。
「決まりね!じゃあ支度して今度お宅に行くわね!」
由子が叫ぶ。
陽葵の生活に、何かが加わった気がした。
ひと月後、何度かの打ち合わせを通してスクールバスで通うことと学費は行政で賄うことを決めた。制服採寸と書類を済ませ、正式な転入が認められたのは六月末。通学開始は夏休み明けからとのことで、それまでは今の生活が続く。
ドラマや漫画でよく描かれる転校の不安というのはまったくなかった。そもそも友達も何もいないというのもあるし、家が変わるわけでもないからかもしれない。
土岐原兄弟、一二歳と一〇歳。
将来になんの展望も描こうとしない少年二人は、新しい生活で何を見つけるだろう。
新しい日常が、始まる。
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