前世編

1 世

 母親の葬式に、彼は出なかった。


 四月七日。春雨の中、一人の少年がマンションのベランダに出る。

 愛知県名古屋市。名古屋環状線に面する都市再生機構都通団地の十一階に、彼は暮らしていた。

 土岐原陽葵ときはらひなた。一二歳、小学六年生としては落ち着いた彼の部屋着はくしゃくしゃのステテコとTシャツ。陽葵は鬱病と薬物依存の治療でここ数年、ほとんど帰らなかった母親の代わりをしていた。


 朝起きれば掃除をし、朝食を食べ、弟を送り自分も学校に行き、帰宅後はランドセルを放って弟を連れ返し買い物をして風呂に入り夕飯を作り食べ、宿題をし片付けをして弟を寝かせたらお金のやりくりをしてふと顔を上げて時計を見ると一時。

 そんな生活だった。

 はやくに離婚したという父の残していった金と毎月届く金は多くはないがまだ残っていて、母親の遺品を売り払えばしばらくは食っていける。だが、その暮らしも吹けば飛ぶように不安定だった。


 同居人どころか家族は弟だけ。

 親戚や祖父母もみんな没した。唯一の肉親だという夫婦は渡米しているらしく音信不通。


 施設に入れられそうになるも、中学入学が目前に迫り、既に数年間家のことをこなしてきた陽葵は特例として今の家で子どもだけで暮らすことを許された。


 陽葵は外を眺める。

 日が暮れたぐらいじゃ音がやまない幹線道路。

 陽葵だって、自分が所謂いわゆる普通でないことは解っている。でも別にそれを嫌だとか寂しいとか思ったことは一度も無かった。それは小さいときから母親なんていないも同然だったからかもしれないし、弟が大事だからかもしれない。


 翌朝。

 中学入学式を終え、教室に通された陽葵は本を読んでいた。学校の後に遊ぶ時間なんてなくて、友達が一人もいないからだ。

「じゃあ自己紹介から始めようか!」

 そこに担任の声が響いた。

 明るく快活で、何なら自分より若々しいと思った。


伏見茉里奈ふしみまりなといいます!国語教師です!よろしくお願いしま〜す」

 女教師の明るい挨拶の後の拍手を出囃子に、一人の生徒が立ち上がる。

「次あたし!豊田莉奈で〜す!……


 聞こうとはしていたが、やはり興味がなくて聞き流してしまった。


 その後三時間ほどで返された陽葵はホームセンターで三万円だった中古の電動アシスト自転車にまたがって帰る。

 学校から家まではそう遠いとは言えないが、早いから自転車を使っていた。

 建物の高さの割に遅いエレベーターに乗り十一階まで登る。玄関にカバンを置き、壁にかかる安物のリュックを背負い直したあとでまた自転車に乗って走り出した。


 これから矢田にある別の私立学校まで弟・陽波ひなみを迎えに行く。五年以上続く日課、とくに何も思うことはない。


 環状線を端まで抜けると、ゆとりーとラインが横切る交差点に出る。そのまま直進し、名鉄矢田を通り越した川の向こう側に陽波を預けている学校がある。

 私立水原中高しりつみずはらちゅうこう。小中高一貫型のエリート校で、特別支援学級のサポート体制が幅広いため陽波を預けていた。


「あら陽葵!陽波ね?ちょっと待ってて」

 特別支援学級・虹組担任は萱場由子かやばゆうこ。いつも派手だが、仕事はできる。


 言われた通り待つ。陽波が来て、帰る。

 

 家に帰り、風呂に入り、いつもと同じ日常。

 代り映えしない、終わりのない日常。


「どうかな?今日は兄ちゃん、張り切って作ってみたんだ」

 陽葵は食卓にオムライスを出した。

 陽波はそれを前に首を傾げている。

「ううん、いつものにしよっか」

 陽葵はオムライスをさげ、代わりの麻婆豆腐を出す。


 陽波は自閉症だった。


 三歳くらいだろうか、診断が下り、彼は自閉症として生きることになった。

 

 二つ下の陽波を、陽葵だけで養うことは不可能だ。でも当時はまだ母も家にいた。小学三年生のときには薬物依存で捕まったが、それまで家事を学びながら生きていた。


 自閉症の特徴として現れることが少なくない"自分が食べ物と認めないものやいつものルーティンと違うものは食べられない"というのを克服させようと、とりあえず何でも出してみるのだが、あまり食べてくれたためしはない。それでも出してみる。野菜でも肉でも、食べれるものが多いに越したことはないと思うから。

 陽波の健康と、人生の楽しみという点において。


 陽波が自閉症とわかって一番変わったのは母だった。 それが一番わからない。

 ただの赤ちゃんから自閉症の幼児になっただけというのは少し違うと思うけど、土岐原陽波という一人の人物であることに変わりはない。それは壊れる理由にならないはずだ。

 陽波は陽波で、陽葵の弟。それは死ぬまで、変わらない。


 日付が変わり、いつも通りに家事を終わらせ寝ようと思った頃、新聞受けになにか入っていることに気がついた。

 それは役所からだった。嫌な予感。


 明日、区役所に顔を出さないといけないことになった。


 翌日。

 学校から帰った陽葵は、着替える服を探していた。水原中高には、陽波を預かってもらう時間を伸ばすようお願いしてある。とはいえ時間はあるとは言えない。

 中学生が役所の面談に着ていってもいいくらいにフォーマルでありながら自転車に乗れるほどは動きやすい服を引っ張り出す。肥やすものもない貧相な中身の箪笥たんすを閉め、水筒と生徒手帳、あと筆箱くらい持っていくことにした。


 区役所は今工事中で、猫ヶ洞の方まで出なくちゃいけない。仲田商店街から錦通を横切って広小路通を東山動植物園方面にひたすら走る。

 予定より少し遅れて到着すると、担当は陽葵を無造作に案内した。


 小会議室2。

「お母さんとはお別れできましたか」

 葬式のことだろう。顔色をうかがうような声で低く訊いてくる。

「いえ。葬式には出ていません。陽波のことがありましたから」

「え。……そう」

 担当は驚いたように言った。


 陽葵は一二歳。家のことなどまだ何も考えなくていいような歳だ。それが親の死をこんなにもあっさりと受け入れ、涙するどころか声色ひとつ変えずに返してきたら驚くのが普通なんだ。


 話題は主にお金の話だった。

 陽葵ははやく帰りたくて、世間話を躱しながら書類をサッサと仕舞しまう。

「あの……。弟くんの話なんだけれど」

 そろそろ帰りますという意思表示に、コップのカルピスを飲み干した陽葵に担当が尋ねた。


「今は陽葵君が毎日世話をして通学をさせているのよね?流石に大変じゃない?もしよければこちらで施設を用意……

 そこまで言わせて陽葵はコップを半ば叩きつけるようにして置いた。

「大丈夫です。陽波に、弟にとっては毎日の通学は刺激であり成長のきっかけなってます。僕もずっと、室内にいるより健康的ですから」

「しかし、市としては……」

 陽葵は小声で礼を言って部屋を出た。


 役所はいつも陽葵と陽波を"ただの子ども"にしようとする。陽波を引き離そうとする。陽波はモノじゃない。ひとりの人間で、たった一人の血縁者。

 生前の記憶なんてもうない母親なんて死んでも何も感じない。でも、陽波はちがう。陽波の成長を見られなくなったら陽葵にはもう生きがいがない。


 世間は陽葵をヤングケアラーと一方的に謳う。けれどそれだけで飾れるほど、陽葵たちは単純じゃない。


 マイノリティだから全部こうだと言って保護するのは違う。それは決めつけだ。マイノリティの人々にもそれぞれ個性や差異があることを、世間は知らなさ過ぎる。


 陽葵は楽観的に生きている。だから助けなくて良い。トリアージするなら最後にしてほしい。


 日本にはもっと困っている人や助けを求める人がいる。無視してはいけない課題があるはず。

 中一の陽葵にわかるそれが行政の人間にわからないならこの国はとっくに破綻している。陽葵は日本がそんな砂上の楼閣ろうかくでないことを祈ると同時に、自分もまだまだ未熟だと思う。


 ムクドリの大群と遠ざかる紺碧の下に、ちっぽけに生きる少年はどこの誰よりも強い。

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