夜泳
ライリー
【読切】
透き通るように晴れた夏の満月の夜。
ミシシッピ川の下流に沿ってメキシコ湾に出、テキサスの海岸がまるで小さな光る孤島のように頼りなく見える他、どこを見回しても水の黒く平たい壁のみが広がる海の只中で、一人の男が泳いでいた。男は上半身裸の競泳用水着といういで立ちで、腰に包丁—巨大なツナを捌くための大柄の包丁をくくりつけている(それは男の平泳ぎの邪魔になりそうで、しかし巧妙にも腿の動きと共に上に避ける仕組みになっている)。体が冷えぬようにと、出発前に沸騰したトウガラシのスープを一思いに飲み、体の芯からオーバーヒートしたように発熱している。当然それは一時的に過ぎず、海に入ってから既に1時間が経とうとしている今は、一刻も早く陸に上がって火に当たらなければ危険な状態が迫っている。いくら夏とはいえ海水は着実に体温を奪っていく。低体温症になり動けなければ命は無いだろう。
一つ言わねばならぬことは、男は船が難破して遭難しているのでは決してないということだ。その証拠に、男が向かっているのはテキサスの海岸ではなく、カリブ海の方だ。彼はあの野生の島に到達するのが目的なのか?しかしそれは無事泳ぎ切ることができたらの話だ。男はむしろ、この海に来たのだ。
男が街での生活でどのような苦境に立たされ、いかにしてこの海泳に至ったのか、知る術はない。男が相当の(それこそまさに命懸けの)覚悟を決め、孤独な海の旅を容易く始めたことは確かだ。男の人生の中で最も危険な、しかし自由に満たされた選択であった。
男は静寂の中に居た。腕で海水を手繰り寄せる音。顔を上げ息を吸う音。顔を水に付けたまま鼻から空気を出す音。海の深いところから聞こえてくる、水流の摩擦の音。完全な静寂よりも透明な静寂だ。それは街に居ては絶対に得られないものだ。男の意識は宙に浮きかけたまま、絶え間なく手足を動かしている。
まもなく月は雲に隠れ、全く何も見えなくなった。しかし男は心細さを感じなかった。暗闇からの客を迎えるチャンスだからである。そしてそいつは来た。
サメだ。男より一回り大きい。もちろん互いに姿は見えない。サメは包丁に反応したのだ。包丁は海深くからのアンコウの出す光を反射していた。それを珍しがって来たというわけだ。男はまだ気づいていない。男は知らず知らずのうちにサメに襲われる危険に面しているのだ。しかしサメが男の包丁目掛けて頭を突き出してくると、事情が変わった。男は突き上げられた感覚からそれが魚類によるものであることを認めると、すぐさま潜ってその姿を探り、蹴りを一つ入れた。蹴りは見事サメの腹に命中した。サメは光を見失ったのと蹴りを入れられたのとで完全に混乱した。さらに男は暴れるサメを拳で制して背後に抱きつくのに成功すると、逃げるサメに乗る形になり、潜ろうとするなら包丁で背を軽く突き、暴れようとするなら腹に蹴りを入れるという寸法で、すっかりサメを手懐けてしまった。天候が悪化せずに済んだのも幸いし、そのままカリブ海の島の方へ勢いよく進んだ。方向の頼りになる月以外はほとんど何も手掛かりがない状態でよく目的を失わず、脅威に大胆に迎え撃ったものだ。男は人知れずその海の王者になったと言っても過言ではなかろう。
そうして海の王者はサメと共に島へ辿り着いた。しかしその時には男もサメも絶命していた。男は低体温症、サメは切り傷が死因と思われた。私がその第一発見者だったわけだ。そこで村人たちにこの海の王者の奇妙な冒険譚を語って聞かせたのがはじまりさ。私はその男とサメのお陰で当分飯を食えそうなんだ。おっと、男が大柄の包丁を持ってたってことは他言しないでくれたまえ。それを売り付けるのはこれからだからな。
夜泳 ライリー @RR_Spade2
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