(三)

 男を追いかけて御前房ごぜんぼうと離れの間の角を曲がり、小鈴は思わず立ち止まった。桂佳宮けいかきゅうにしつらえられた池のほとりに、一人の男が佇んでいたのだ。


 烏の濡れ羽色の長い髪は、後ろで一つに束ねられており、風が吹いたのと同時にさらさらと揺れた。ほっそりとした身体つきであったが、ゆったりとした藍色の袍では隠せない、男らしい骨ばった様子も見える。白磁のように白い肌に、長い睫毛。一瞬女と見まがうほど、中性的な顔立ちをしていた。どちらかといえば、さっぱりとした顔立ちにもかかわらず、唇の横にあるほくろが妙になまめかしい。


 小鈴が近づいたのを見て、男はちらりと視線をあげた。


(……まさか)


 服装からして、宦官でも、衛士でもない。

 こんな軽装でこの場を歩けるのは、皇帝を除けばあと一人しかいない。そのことに気づいた瞬間、小鈴は膝をついて頭を下げていた。ざわりと嫌な感覚が胸をよぎる。小鈴がこれまで培った第六感が、この男に近づいてはいけないと告げていた。


(油断した。こんなはずではなかったのに)


 紗月の晴れ舞台を控えて、浮かれていたのだろう。小鈴は思わず唇を噛む。この男だと気づいていれば、追うなんて馬鹿な真似はしなかったのに。


「……立て」


 言われるままに立ち上がると、男は池のほとりにあった大きな石に腰かけた。近づいてみると、薄く華奢な身体をしており、風に吹かれれば折れてしまいそうだった。

 黒曜石のごとき瞳は小鈴を写しているものの、何の感情も浮かんでいない。


 小鈴を「人物」ではなく、景色の一つとして見ている。そんな視線に、居心地の悪さを感じた。ただ分かるのは、不躾に御前に現れた小鈴に対しても、彼はまったく意に留めていないということだった。不敬だと罰せられることはなさそうだと、小鈴は少しだけ安堵する。


「明日の宴は、あの東屋でおこなわれるのだったな?」


 くい、と男は顎で東屋を指した。明日は池のほとりに灯りを浮かべ、東屋から眺めながら食事をする手筈となっている。まだ客人たちには知らせていないはずの情報を、なぜこの男が知っているのだ。小鈴はそう思いながらも首肯した。


「……左様でございます、殿下」


 小鈴の言葉に、男――皇弟由弦ゆげんは初めて笑みのようなものを口元に浮かべた。


「知っているのか」


「この後宮に立ち入ることができる者は、限られております」


「ふむ。それもそうだな。明日の宴の舞台がどんなところかと、抜け出してきてみたのだが、後宮というのは雅なところだな」


 由弦はからりといったものの、本来皇弟が自分の足で来るような場所ではない。


 ふと、小鈴は由弦にまつわる話を思い出す。


 由弦は、皇帝青瑛が唯一殺さずに生かしている弟である。

 青瑛が由弦の命を取らなかったのには、由弦がひどく病弱だったためとされているが、市井では一つの噂がまことしやかにささやかれていた。

 

 ――曰く、由弦は気が触れているのだと。


 心優しき青瑛は、そんな弟を哀れみ命までは奪わなかった。青瑛を讃えるともに出回ったそんな噂だが、信じる者も多かろうと小鈴は思う。

 麒仁国の後宮で働く小鈴のもとにも、由弦の話はほとんど届かない。国事のときにさえ、由弦は姿を現すことがないのだ。民たちからしたら、由弦の存在さえ怪しい状況だろう。小鈴が顔を知らなかったのもそのせいではあるが、追いかけたのは早計だったと唇を噛んだ。


(気が触れているなんて……嘘だわ)


 小鈴を前にして堂々と振る舞い、すらすらと言葉も紡ぐ。噂とまったく違う姿に、小鈴は由弦の能力を測り兼ねていた。


「私が思うに……あの東屋は良くない」


 ゆっくりと、由弦は東屋を指差した。


「あそこには何の遮蔽物もない。塀の上から射られてはひとたまりもない」


 由弦の言うとおり、東屋の周りには池と木しかない。籠の鳥である後宮妃たちへ、ひと時の癒しを与えるために作られた東屋だ。

 後宮というものは、機能性よりも審美性を重んじるものである。万が一のことがあり、衛士が破られれば、この宴が地獄の様相を呈すことは明白だった。


「君はこの桂佳宮の宮女だな?」


「左様でございます」


「なら、何か遮蔽物を用意させろ。そうだな、竹でできた衝立であれば、見た目も損なわないだろう」


「かしこまりました」


 小鈴の返事に、由弦は満足そうにうなずいた。


「万が一、兄上の身になにか起こったら困るだろう? 僕も、君も」


 そう言った由弦の声は、なぜか自分に言い聞かせるようだった。ゆったりと足を組んだ由弦は、今度は小鈴の顔をじっと見つめる。


「……君は、存外可愛らしい顔をしているんだね?」


 小鈴は沈黙した。自分の外見が目を引くことは知っている。それ故に、小鈴の一族は自分の気配を消す方法を身に付けていた。自分が意図しない限り、相手に印象を持たせない技であるが、それを見破られたことに舌を巻く。


(この男は、なんなの……?)


 唯一青瑛に生かされ、共も付けずに後宮を自由に出入りし、東屋の構造を見て敵から射られる可能性を助言する。たしかに変わりものではあるが、小鈴の目にはやはり由弦が気が触れているようには思えなかった。


(市井での噂は紛い物か、それとも――)


 この男が、わざと流した噂か。それならば合点がいく。

 由弦は、小鈴の反応を楽しむように、微笑を浮かべていた。


「可愛らしい顔に似合わず、君の瞳の奥には闇がある。深い絶望を見てきた色だ」


 詩でも唄うように軽やかに、由弦は言葉を紡ぐ。


「血生臭い過去でもあるのかな?」


「……お戯れを」


 くすくす、と由弦は笑った。本気なのになぁ、と大抵本気には思えないような口ぶりで言って、由弦は立ちあがった。


「兄上は紗月さまのことを気に入っていらっしゃる。遮蔽物の件、頼んだよ」


「はい」


 かしこまった礼の形をとる。

 頭をあげたときには、すでに由弦の姿は遠くにあった。


(気に食わない男……)


 ——なにが、深い絶望を見てきた色だ。

 

 何も知らないくせに、知ったような口をきく。不快感が渦巻いた。由弦の言ったとおりに竹の衝立を用意させてから、自分の仕事を終わらせるために離れへと戻る。


 邪念を祓うように、小鈴は包丁を振り下ろしたが、由弦のからかうような声が頭のなかにこびりついて落ちなかった。

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