(四)


 次の日。

 美しい主――紗月が貴妃となったところを見届けて、小鈴は思わずため息をついた。


(蘇公に媚びを打っておいて正解だったわ……)


 本来ならば、御膳房の宮女ごときが授位の式へと出ることは許さない。だからと言って、貴妃となる紗月の姿を見ないという選択肢は、小鈴にはなかった。青瑛付の宦官である蘇公の人脈を最大限に駆使して、末席の末席ではあったが、同じ空間に居ることだけ許された。紗月の姿は遠かったが、それでも小鈴の胸はいっぱいだった。

 

 一切の穢れなく、美しく咲き誇る主。何にも変えられぬ、後宮の華。

 小鈴にとって、何者にも代えがたい存在。

 一瞬でさえ忘れたくないと思った瞬間、ぎゅっと切なさが胸に去来した。


(紗月さま、あなたはきっと忘れてしまったでしょう?)


 胸のなかでそっと紗月に問いかける。小鈴のことなど忘れてくれて良い。そう思っているはずなのに、小鈴の胸はぎゅっと締め付けられるようだった。


 紗月はあの頃のまま、穢れなくそこに在る。

 笑いあった過去のまま、綺麗なままで。

 

 小鈴は、何もかもが変わってしまった。綺麗だった手で何度も人を殺めた。それが仕事だからしょうがない。そう諦めなければ、やっていけなかった。


 自分は紗月の隣にいることはできない。それでも、紗月の力になりたかった。あの時向けられた光を、手放すことはできなかった。


 瞼の裏に紗月の姿を焼き付けて、小鈴はその場を去る。夢のような時間はもう終わり。仕事の時間だ。


 儀式の場となった青瑛の住まい――燕黄殿えんこうでんを出て、中庭へと向かう。皇帝のために作られた庭園であったが、花をさほど好まない青瑛のおかげで、花の手入れは以前と比べておざなりになっている。花を好む紗月が皇后になった暁には、きっとこの庭園も美しく蘇るだろう。


 樹々の生い茂った庭園に土足で踏み入れ、小鈴は小高い丘のふもとまで足を進めた。向かった樹の木陰にとどまっていた鸚鵡おうむの姿に、ひとまずほっとする。極彩色の鸚鵡おうむは、紗月が父にねだったすえに手に入れたものである。


 ふわふわの喉元を撫でてやりながら、小鈴は鸚鵡の足に紙を括り付けた。


「紗月さまの元に、ちゃんと届けてちょうだいね」


 何も知らないはずの鸚鵡は、黒々とした瞳で小鈴を見つめ返した。人ほどの知能はないと分かっているにも関わらず、たまにこの鸚鵡は人の心を分かっているような顔をする。何もかもを見透かしているような瞳が、不気味で苦手だった。紗月が大切にしている手前、すこしは苦手意識をなくしたいところではあるが、一向に克服できそうにない。


 もう一度喉元を撫でると、鸚鵡はぴきぃ、と鳴き声のようなものをあげて、羽ばたいた。ばさばさと羽音を立てていなくなった鸚鵡を見上げて、小鈴もその場を離れる。


 庭園を抜け、宴の準備のために桂佳宮へと足を進める道の途中、小鈴は見覚えのある少女の姿を目に留めた。庭園の中央にある池を前にして、今にも身投げしそうなほど青い顔をしている少女。黙っていられず、思わず声をかけた。


「明明、どうしたの?」


 小鈴の声に、少女――明明めいめいははっとして振り返った。小鈴、と呟いた顔は泣きそうに歪んでいる。


「えへへ……何でもないよ。ちょっと休憩しに来ただけ」


「また宮女頭に怒られたの? 宴の準備も佳境だし、みんな気が立ってるのよ、気にしない方がいいわ」


 慰めを口にすれば、明明は大げさに首を横に振った。


「そ、そうじゃないの。今のところ、宴の準備は順調だよ」


 明明は、小鈴とおなじく紗月の御膳房で仕える宮女だ。元は辺境の州公のもとで働いていたのだという。州公の娘付の侍女だったが、州公の娘が嫁入りをするにあたって解雇されてしまい、紆余曲折のすえにこの後宮へやってきた。三人姉妹の長女だが、しっかり者かと思えばどこか抜けているところもあり、宮女頭から怒られることもしばしばだった。


 明明は苦笑いをして視線を落とす。そこには黒々と揺れる水面があった。

 それじゃあどうしたの、とたずねようとして、小鈴は口をつぐんだ。明明が話す気がないのであれば、小鈴に聞く権利はない。明明には明明の苦しさがあって、小鈴には小鈴の苦しさがある。明明がそこから抜けだしたいと願わない限り、小鈴が勝手にそこから救いだすことはできない。


 そのまま黙っていると、明明が逆にたずねた。


「小鈴も、どこへ行ってたの? さっきまで、目も回るほど忙しかったのよ」


「別の用事を言いつけられて、すこし遠出していたの」


 さらりと嘘を口にしても、明明は素直に相槌を打つ。こういった素直なところが、小鈴にはない明明の魅力なのだろう。


「あら、ほんとう? 小鈴も大変ねぇ……」


「今宵は紗月さまが主役だから。私たちが忙しいのは当然よ」


「そうね。紗月さまのための宴なのだものね」


 水面を眺める明明の顔はいまだに暗い。ふと脳裏に、由弦の声が浮かんだ。


(私の瞳も、この池のような暗い色をしているのかしら……)


 自嘲気味に唇の端を吊り上げて、小鈴は明明の肩を叩いた。


「そろそろ戻りましょう?」


 小鈴を見つめた明明は、何か言いたげな顔をしていた。口をすこしだけ開いて、そして諦めたように閉じる。


「……そうね」


 小鈴はそれに気づいたまま、見ないふりをして歩き出した。





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