(二)
――時は遡り。
紗月が貴妃へと位をあげる前日の夜。
(うへぇ……思った以上の量ね)
小鈴は目の前に積まれた
自分が作る食事が紗月の血肉となっていることを思うと、小鈴にとってこの仕事は天職と言える。普段は紗月のことを考えるだけで仕事へのやる気も湧くのだが、今日ばかりはそうはいかなかった。
今宵、小鈴が準備するのは、紗月以外のその他大勢に向けた料理だ。紗月の貴妃昇格を祝う宴が、明日の夜におこなわれるのだ。紗月の宮――
せっかく手間暇かけて作った料理が、紗月ではない来客の一人の胃に入ることを考えると、正直今すぐ仕事をほっぽり出したくなる。
(……そうは言っても、やるしかないわね)
豚を解体し、鳥の足を捥ぎ、血抜きをする。それが、小鈴が主に任されている御膳房での仕事だ。他の宮女たちは頑なに嫌がるが、小鈴にとっては簡単なものだった。
これぐらい出来なければ、人を殺すことはできない。特殊な家柄故、小さな頃に厭々ながら身に付けた技術であったが、新鮮な肉を紗月に提供できると気づいてからは、誇れる技術の一つになっていた。血が飛ぶと嫌がって誰も近づいて来ようとしないので、一人で黙々と仕事ができることも気に入っている。
御膳房のほとんどの宮女が働く炊事場とは別に、こじんまりとした離れが用意されており、小鈴はそこで伸び伸びと解体をおこっていた。事情を知らない宮女からは、盛大ないじめを受けているのではないかと心配されることも多いが、小鈴としては、普段はとても楽しく仕事をしているのである。
「小鈴、そっちの準備はどう?」
ふと顔をあげれば、入り口からそーっと覗きながら小鈴に声をかける女の姿がある。おなじ貴妃付の宮女である
「あとすこしで終わるわ」
御膳房に務める小鈴と違い、茜葉は紗月の衣服を司る御衣房ごえぼうに務めている。今日の宴に向けて、茜葉からは準備にあたっての愚痴をあれこれ聞いていた。前日に忙しい小鈴と違い、茜葉の忙しさの山場は少し前にすでに終わっているはずだ。今日の仕事も終わったのだろうと思い声をかけると、茜葉は血まみれの前掛け《エプロン》を身に付けた小鈴の姿を見て、あからさまに嫌な顔をした。
「うわ……すっごい格好してるわね」
「いつものことだから気にしないで。茜葉はもう終わったの?」
小鈴の言葉に、茜葉はうなずいた。
「あたしはさっき終わったとこだけど、あんたに客人が来てたからお連れしたの」
「客人……?」
「
「蘇公さまが?!」
思わず声が裏返ってしまった。
「ちょっと待ってて! いま着替えるから!」
前掛けを外し、小鈴はばたばたと包丁を片付ける。血生臭さは今さらどうしようもないが、包丁にうつった自分に血しぶきが飛んでいないかだけ確認して、小鈴は外へ出る。
「蘇公さま! お待たせしました!」
今さっきまで血まみれだったとは露ほども感じさせない笑顔だっただろう。隣にいた茜葉の表情が引きつっているのを横目で見ながら、茜葉は蘇公の腕をぎゅっと握る。
「しょ、小鈴」
はげかけた頭に、でっぷりと太った腹。蘇公はこの麒仁国の後宮に勤める宦官である。気難しいとも言われている皇帝、青瑛の宦官であることから、普段は雑務に忙しく、こうして小鈴のもとへやって来るのは稀だった。
「私に会いに来てくださったんですか~~?」
普段の三倍ぐらい高い猫なで声で、小鈴は上目遣いで蘇公を見つめる。女に触られることもほとんどないのだろう。蘇公はたじろいだように視線を彷徨わせた。ここで負けてなるものかと、小鈴はじっと蘇公を見つめる。
「蘇公さまはとっても忙しい方なのに……私、うれしいです!」
頭をかきながら、蘇公は鼻の下を伸ばした。だらしない顔に、内心嫌気がさしかけるが、それでも笑顔は絶やさない。
「ごほん。あのだな……小鈴。貴妃昇格の儀についてだが……末席ではあるが、そなたも参列できるように取り計らっておいた」
「ほんとうですか?! うれしい!」
小鈴は、これまでの作りものの笑みとは違う、心からの笑みを浮かべた。
(まさか、本当に参列できるとは思わなかったわ……!)
明日、紗月は貴妃となるための儀式をおこなう。その場には、紗月だけでなく、もちろん皇帝の青瑛も呼ばれる。国をあげての儀式であるために、小鈴のような一介の宮女は中々その場に居合わせることはできない……のだが、紗月の一世一代の晴れ姿を見ることができないというのは、小鈴にとっては中々に酷だった。この日のために、これまで作りあげてきた人脈をこれでもかと駆使して、青瑛付の宦官である蘇公に直談判していたのである。これまで媚びを売り続けた甲斐があったと、小鈴は内心ほくそ笑んだ。
「主の晴れ姿を見ることができるなんて、本当に夢のようです」
いつどんな時だって美しい紗月だが、貴妃となった紗月はなおさら美しいことだろう。明日の紗月がどんな衣装に身を纏うか、妄想の旅に出かけようとしていた小鈴だったが、蘇公の視線に気づき、咳払いをする。
「……そちらに動きはあったか?」
声を潜めて、蘇公が問うた。
彼の纏う雰囲気が仕事人のそれになったことに気づき、小鈴は小声で耳打ちする。
「表立った動きはありません。ただ、そろそろかと」
蘇公はうなずく。見た目はともかく、仕事はできる男だ。その点において、小鈴は蘇公のことを信頼していた。
「用事は済んだ。……私はここで失礼しよう」
「えぇ……もう行ってしまわれるのですか?」
名残惜しさをにじませれば、蘇公は元の雰囲気に戻り、口元をだらしなくほころばせた。引き留めて欲しいのが見え見えだが、小鈴は思い切り眉毛を下げて、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「いえ、蘇公さまはお忙しい方ですものね。私めのために振り回すなんて、他の方々から怒られてしまいます」
「そ、そうだな。今宵は忙しいが、また折を見て来よう」
「本当ですか? 蘇公さま、ありがとうございます!」
とびきりの
蘇公の姿が角を曲がって消えるまで眺めていると、物陰で待っていたらしい茜葉が近づいてくる。
「……ほんっと、あんたって外面だけはいいわよねぇ」
あきれ顔の茜葉は、大げさにため息をついた。
「外面だけってどういうことよ」
「はいはい。あんたは外見”は”かわいいわよ。……それにしても不思議よねぇ。あんたって陰が薄いのに、狙った男だけは逃さないのよねぇ。蘇公なんて大物、いつ釣っておいたのよ」
「教えない」
口元に笑みを浮かべながら、答える。
――外見が良いのは、当たり前だ。
美しくなければ、こうして男を籠絡することもできない。竿なしの宦官であっても、男は男。女として生まれた以上、恵まれた外見を使わないという選択肢はそもそも小鈴にない。
一族では、そのために外見の優れた子どもでしか、仕事に付かせない。
美しいことは、小鈴にとっては義務であった。そんなことは露知らず、周りの人々は皆小鈴の外見を褒める。こんなものは、作りものの外身でしかないというのに。
「そりゃそうね。蘇公も忙しそうだったし、明日が無事に終わればいいわねぇ」
「そうね」
小鈴はうなずいた。紗月の晴れ舞台だ。紗月の心に憂いなく終わって欲しいと心から願うが、これから起きる出来事を思うと、それが難しいことはわかっていた。
「あんた、あとどれぐらいで仕事終わりそう?」
暮れかけた陽を眺めて、茜葉は言った。
「私はもう少しかかりそうだから、先に帰ってて」
「明日も早いんだから、早めに帰ってきなさいよ?」
そう言って帰っていく茜葉の後ろ姿に手を振る。仕事を終わらせるためには、あともうひと踏ん張りする必要がありそうだった。
ぐーっと背伸びをして、離れに入りかけた小鈴だったが、視界の端に見慣れない人物を捉えて足を止めた。
(誰かしら……?)
宦官も含め、後宮の人物の顔と名前はだいたい把握しているはずである。自分が知らない人物となると、途端に興味が引かれた。後宮内の状況把握のためにも、追いかけることは無駄にならないだろう。そう判断した小鈴は、踵を返し、男の向かった方へと足を進めるのだった。
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