(六)

 

 その後、無事に御膳房までたどり着いた小鈴たちは、宴が始まるのを固唾を飲んで見守っていた。桂佳宮がこれだけの人であふれる様子を見るのは初めてだ。普段会うことのない要人たちが集まっていることに、宮女たちも浮足立っている。


「紗月さまの体調は大丈夫なのかしら」


 小鈴の後ろに待機している明明がつぶやいた。


「きっと、大丈夫よ。あんなにお美しくていらっしゃるのだから」


 そう言って、小鈴は今日の宴の主役である紗月を見やった。


 すこし高くなった席のうえ、紗月が緊張した面持ちで青瑛の訪れを待っている。小鈴たちが身に付けているのと同じ、純白の襦裙である。小鈴たちとは違って、たっぷりと敷き詰められた金色の刺繍は、遠くからでも分かる大輪の牡丹だった。


 紗月が好きな、牡丹の花。


 それは、遠い過去の日に紗月がくれた牡丹の花とよく似ていた。じわりと胸に感傷がこみ上げてきて、小鈴は思わず唇を噛む。どんな時でも気高く、美しい紗月の姿を、この時ばかりは苦しく思ってしまったのだ。


 そのとき、青瑛の訪れを知らせる銅鑼の音が鳴った。


 その場にいる誰もが、青瑛に向かって頭を垂れる。衣擦れの音ともに、青瑛が中央にしつらえられた天鵞絨の絨毯を通り、主賓の椅子に腰かけた。


「面をあげよ」


 重々しい声とともに、小鈴は顔をあげる。青瑛は豊かな黒髪を頭上にまとめあげ、皇帝しか着ることを許されない、金色の袍に身を包んでいた。がっちりとした体躯の青瑛は、遠くから見れば皇帝というより、百戦錬磨の将軍のように見える。それは、彼の放つ覇王の気がそうさせているのだろうと小鈴は思った。


「今宵の宴をひらくことができたのも、すべて陛下のおかげです」


 紗月が鈴を鳴らすような声で言った。


「陛下がいてこそ、いまのわたくしがあるのです。その気持ちを今宵の宴へと込めました」


「ほう。たしかに今宵の景色は見事だな」


 青瑛はあたりを見渡す。東屋から見える池のうえには灯篭が浮かび、水面がさざめくたびにゆらゆらと幻想的な光を投げている。花が好きな紗月らしく、几の上には初夏を彩る色とりどりの花と灯りが並んでいた。


「もしかしたら、仙界というのはこうした景色なのかもな」

 

 そう言って、青瑛は紗月を見つめてほほ笑む。紗月もまた、青瑛の顔を見つめて笑みを浮かべた。まさにおとぎ話に出てくる男女のような姿に、紗月は思わず小さなため息を漏らした。幸せそうな紗月の表情に、胸がいっぱいになる。


「さて、堅苦しい挨拶はこれぐらいにして、今宵を楽しもうではないか」


「それでは、皆さま。今宵の宴をはじめましょう」


 紗月の言葉に、全員が立ち上がる。そして、青瑛が音頭をとり乾杯をおこなった。宮女頭の合図とともに、端で控えていた宮女たちが、一斉に配膳をはじめる。先ほどまで、小鈴たちをはじめとする御膳房の皆で作った料理だった。小鈴もこぼさぬよう細心の注意を払いながら、つくえの上に配膳していく。本当は紗月の様子を見ていたかったが、ここで失敗すれば紗月の顔に泥を塗ってしまう。それだけは絶対に避けなければいけない。


 その代わり、と言ってはなんだが、宴に呼ばれた後宮妃たちの様子を観察することにした。貴妃たる紗月より一つ下、徳妃の位を持つ蘭麗らんれいは、目鼻立ちのはっきりとした華やかな美人だ。紗月とも負けず劣らない家柄の持ち主で、実家の後ろ盾も強い。蘭麗の父である太師も今宵の宴にも呼ばれているはずだ。ちら、と来賓席の方を見ると、でっぷりと太った太師の姿が見えた。

 この親子を崩すのには時間がかかる、というのが小鈴の見立てだった。さすが太師まで上り詰めただけあり、蘭麗の父は中々弱みを見せない。その血を引く蘭麗も、頭が切れるために、自らが不利になるようなことは一切しない。その代わりに、損得勘定が得意で、自分にとって損になるような立ち回りをする後宮妃たちをすぐに切り捨てる。冷酷無慈悲な人間として、後宮では恐れられていた。


 その蘭麗の隣に座っている気弱な女が、賢妃――麟董りんとうであった。彼女は最近、賢妃に昇格したばかりの後宮妃である。いつもおどおどと蘭麗の様子をうかがっている、蘭麗の腰巾着だ。いま、この後宮はほぼ蘭麗と紗月の一騎打ちという状況であり、どちらかと言えば父親が政治において強い力を持っている蘭麗に付いたほうが勝つ算段があると踏んだのだろう。


(陛下は、この女のどこが良いのかしらね)


 美しいか、美しくないか。

 その二択で言えば美しい方なのだろう。真白に透き通った肌に、垂れ目がちの淡い茶の瞳。流れる黒髪も豊かだ。しかしながら、身のこなしがあまりに拙い。聞くところによると、賢妃は辺境の州公の娘らしく、地方へ視察へ行った際に青瑛が見初め、後宮入りをしたのだという。紗月のような完璧な美貌ばかり見ていれば、このような凡庸な花を見たくもなるものだろうか。小凛には、青瑛の好みがさっぱりわからなかった。


「陛下、お味の方はお気に召したでしょうか?」

 

 鈴を転がすような紗月の声がする。青瑛が鷹揚に頷く。


 来賓の官人たちも、口々に紗月を褒めそやした。青瑛の寵愛あつく、貴妃へと昇格した紗月のほうは、今となっては蘭麗より勢いがあると言っていいだろう。ここで、紗月に媚びを売ることで、紗月が皇后となった際に良き計らいを得ようとする魂胆が見え見えだった。


 はたと、その時昨日出会ったはずの由弦の席が空であることに気づく。姿を現さないのが常であるからか、由弦がいないことに対して、意義を唱えるものはいない。由弦がいなくとも、流れるように時間は過ぎていく。誰も由弦のことを心配しない。そのことに、小鈴は何とも形容しがたい違和感を覚えた。


 その他の後宮妃たちの顔色は依然として固い。後宮妃たちの多くは、紗月を妬ましく思っていることだろう。笑顔の形を作りながらも、蘭麗の表情は見えない。三夫人のうち、後宮妃として一番長く青瑛につとめてきたのは蘭麗だ。いちばん最初に貴妃になるのは自分だと、そう思って疑わなかっただろう。

 そんなときに、紗月がいきなり現れて貴妃の座をかっさらっていったのだ。面白くないはずがない。


 ――次の食事を取りにいかなければ。


 手にしていた料理の配膳を終え、小鈴はもう一度御膳房へと戻ろうとする。

 そのとき、麟董の近くに明明が寄ろうとしたのを、小鈴は視界の端にとらえた。


「明明」


 小さく名前を呼べば、明明はぴくりと背中を震わせた。


「ごめんなさい、こっちへ来て手伝ってもらえる?」


 小鈴の言葉に、明明は逆らわなかった。

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