(七)


 麒仁国の辺境に生まれた明明にとって、後宮というものは遠い存在に感じられていた。辺境の地ではあったが、普通に生きる分には不自由もなく、当たり前のように結婚相手を見つけて結婚して、当たり前のように子どもを産み、当たり前のように死んでいくとばかり思っていた。

 後宮なんて、貴族のお偉いさんが向かうところだ。自分のような召使なんて、一生そこに辿りつくことない。そう思っていたし、それで良いと思っていた。


「明明は、後宮をどう思う?」


 敬愛する主――麟董りんとうにたずねられたときにも、そんな風に答えたことを覚えている。すると主は、口を尖らせて拗ねたように言ったのだ。


「そんなんじゃ、つまらないわよ」と。では、主は後宮へ行ってみたいのかと問えば、麟董はその瞳をきらきらと輝かせて言った。


「いつか皇帝陛下に見初められてみたいわ」


 その言葉のとおりに、麟董は時の皇帝青瑛に見初められた。きっかけは青瑛の視察であった。周りの者たちは、もちろんいたく喜んだ。

 麟董は誇らしい我らの姫だ。麟董が後宮へと向かう折にも、明明は麟董なら皇后になれると信じて疑わなかった。こんなことになるとも知らずに。



* * *


「明明」


 襦裙の下に忍ばせていたものを懐から出そうとしていたその時、いきなり声をかけられ心臓が止まる。冷静を装って声の主を見れば、御膳房の同僚――小鈴だった。いま明明がしようとしていたことがバレていたのかと、息を潜めて小鈴の次の言葉を待つ。


「ごめんなさい、こっちへ来て手伝ってもらえる?」


 その言葉は、まるで天からの救いのようにも、魔の囁きのようにも思えた。眉をハの字に避けてたずねる小鈴の顔色をうかがうも、小鈴の顔色は特に変わらず、明明を咎めているようには見えない。


 整った美しい顔立ちは、後宮妃たちと比べても遜色ない。顔を形作るすべてが、完璧な配置で置かれている。神が彼女を心から愛さなければ、こんな風には生まれないだろう。そう思ってしまうほどの美貌だった。だというのに、小鈴は自分の容姿を鼻にかけることなく、汚れ仕事だって買って出る。新参者である明明に率先して声をかけてくれたのも、小鈴だった。容姿だけでなく、心根も優しい。天は二物を与えずというが、小鈴を見ているとそれは嘘だと実感する。

 小鈴のようになれたら、どんなに良かっただろうか。後宮に入ってから、そう思うことは何度もあった。


 今ここで小鈴の言葉を無視するという選択もできた。それなのに、明明は小鈴の言葉を振り払うことなどできなかった。すごすごと、小鈴の言葉に従ってその場を離れる。背に刺さる麟董の視線には、知らないふりをした。


 心臓は早鐘のように激しく鳴っている。御膳房へと戻ると思いきや、小鈴は明明を離れまで連れてきた。いつも小鈴が食材を解体している離れだ。


(何の用だろう……?)


 自分の背から冷たい汗が流れていることを悟る。小鈴の表情はいたっていつも通りで——だからこそ末恐ろしい。離れに入って扉を閉める。その瞬間、小鈴が明明の手をぎゅっと握った。


「明明、あなた何をしようとしていたの?」


「……?!」


 にっこりと、小鈴は微笑む。その姿はくらりとするほどに美しく、けれどその笑みには感情がこもっていない。まるで、美しい人形と相対しているような感覚に襲われる。細い手を振り払おうとして、明明は愕然とする。


(なに、この力……!)


 小鈴が他の宮女たちと違う仕事——動物の解体を任せられていることは知っていた。力仕事だ。他の宮女たちと比べて力が強いこともわかる。それでも、いまかけられている小鈴の力は、そんなものではない。明明の手がぎちぎちと音を立てている。このままでは骨が砕けてしまう、明明は本気でそう思った。


「な、なにもしてないわ!」


 半ば悲鳴のように叫ぶも、小鈴は顔色を変えない。


「……そう。それじゃあ、襦裙のなかに隠しているものを見せて?」


 その瞬間、小鈴は明明の手を離した。さぁっと手に血が戻ってくる感覚がある。

 明明は沈黙した。小鈴が何をしたいのか、わからなかったのだ。ごくりと唾をのむ。


 小鈴は、紗月付の宮女としていちばん最初に仲良くなった宮女だ。もしかしたら、正直に話せば明明に味方してくれるかもしれない。明明は被害者なのだから。

 一抹の希望に縋って、明明は震える手で懐から箸を取り出した。元は銀色だった箸だが、先が黒ずんでいる。今日のために明明が箸である。


 小鈴はその箸を受け取って、しげしげと眺めた。この箸がどんな意味を持つのか、知らないというわけではないだろう。


 銀の箸は、貴人しか持たない。


 純度の高い銀色の箸を使うことで、なかに毒薬が混入しているかどうかを、食す前に発見するのだ。銀の箸が黒ずめば——それは、毒に触れたということだ。


 すべて、麟董に命じられたことだ。

 明明を紗月付の宮女にすることで、紗月に近づかせる。そして、紗月が麟董を害そうとした証拠をでっち上げるのだ。黒ずんだ箸を渡すだけ。それで良かった。そうするだけで、紗月が毒を漏ろうとした証拠になる。多くの観衆のなかで、黒ずんだ箸という証拠があれば、多くの人は紗月が毒殺しようとしたのだと考える。

 それに、たとえ紗月が否定したとしても否定できない証拠をも作り上げる手筈はできていた。麟董と懇意にしている侍医――円侍医の手を借りるのだ。毒が含まれていると声をあげた麟董は、自分の頼りにする円侍医に、毒の検分を命ずる。その際に毒を紛れこませれば、麟董が毒を盛られたという事実を作ることができる。そして最後に、明明が紗月に命じられて毒を盛ったと証言すれば、紗月の罪は揺るがぬものとなる。


「……明明」


 静かに名前を呼ばれ、明明はぴくりと身体を震わせる。


「かわいそうに」


 小鈴は桃色の唇を震わせて、そう言った。


 かわいそう、かわいそう、可哀想。


 小鈴が言った意味がわからず、明明は頭のなかで言われた言葉を反芻する。


「主に恵まれなかったのね」


 そう言って、小鈴は微笑んだ。その表情を見て、明明は自分がこれからしようとしていたことも全て、小鈴にはお見通しなのだと悟った。


 自分が麟董の命で紗月付の宮女となったことも。今宵の宴で、紗月を貶めようと画策していたことも。そして、そのために自分が命を落とすと決まっていたことも。


「しょ、小鈴」


 助けてくれとは言えなかった。明明自身が選んだ主だ。

 辺境の地で過ごす明明にとって、ずっと麟董は憧れだった。明るく聡明な、美しい姫。何にも縛られずに夢を見て、そしてそれを叶えてしまう力をも持つ美しい人。そうだと信じて疑わなかった。その憧れの麟董が、後宮へ向かってからはまるで人が変わったようになってしまったと聞いたとき、愕然とした。

 もう明明の憧れであった麟董はいない。そう分かっているのにも関わらず、麟董のお願いを聞いてしまった。

 

 自分が愚かだから、この選択肢を取るしかなかった。自分のせいだ。分かっているのに、今から自分が死ぬと思うと怖くて仕方なくて。誰かにこの恐怖をわかってほしいとずっと思っていた。


 小鈴は、丸い瞳でじっと明明を見つめている。目の前の同僚になら、打ち明けても良いだろうか。そう思って口を開こうとした瞬間、まるで鈴を鳴らすような可愛らしい声で、小鈴は言う。


「でも、そんな主を選んだあなたが悪いのよ」


 その顔は、美しかった。

 美しい故に残酷で、明明の目の前は暗くなっていく。


 自分のせいだと思いたかった。本当は自分のせいだとは思えなかった。明明の胸のうちにある醜い感情が、小鈴の言葉をきっかけに溢れ出ようとしていた。


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