6 暮
円城寺刑事からは逃れたが、わたしに行き先はない。公園のベンチで途方に暮れていると、ある場所の光景が脳裡を過る。何処だろう。もちろん、わからない。わかるわけがない。けれども、わたしの記憶なのだ。それを頼りに思い出すしかない。
わたしは目を瞑り、同じ光景を再度見る。建物の構成ではわからない。文字が必要だ、と考える。その場所を特定できる文字が……。何処かに文字はないか。わたしは懸命に探し続ける。電信柱はあるが、遠過ぎる。小さくて文字が読めない。街頭掲示板もあるが同様だ。これでは何もわからない。店の看板を探す必要があるだろう。あるいは会社の看板でも良い。大きな文字を探すのだ。何処かにないか。
通りの向こうには……。
歩道橋の近くには……。
すると、あるぞ。宮下堂靴店、と書かれている。他にはないだろうか。そう思い、暫く探すが、あとはチェーン店の看板だけだ。あれらでは場所を特定できない。同じ名を持つ店が幾つもの街にあるからだ。
わたしは公園を離れ、繁華街に向かう。インターネット・カフェに入るためだ。階段奥の狭い個室に入り、宮下堂靴店を検索する。すると三件のヒットがある。そのうちの二件はデパート内の店舗だ。だから残りの一件の所在地に向かうことにする。
が、その前にすることがある。この場所の位置を特定することだ。繁華街に入ったとき、わたしはまず最寄駅を探している。ついで、その駅名を記憶する。記憶した駅名を、今度はネットで検索する。ついで宮下堂靴店へと至る道順を調べる。区は異なるが、二つとも同じ都下にある。距離はそれほど遠くない。だから、わたしは電車には乗らず、盗んだ自転車で宮下堂靴店に向かおう、と決める。
インターネット・カフェの外に出ると辺りが暗い。が、晴れているので問題はない。つまらぬことで警察に捕まらないように自転車のライトを点け、わたしが力強く自転車を漕ぐ。途中で方向を確認しながら、一時間弱、自転車移動だ。
やがて宮下堂靴店に辿り着く。ぐるりを見まわし、わたしの記憶にあった場所を探る。どうやら小さな公園のようだ。石畳の上に石の椅子が設置されている。わたしは急いで、その公園に向かう。公園に近づきつつ、周囲を探るが、特に怪しい者はいない。
わたしが公園に立ち入ったタイミングでカップルが同時に席を立つ。それで、わたしが石の椅子に座れるようになる。視界を定めれば、記憶と同じ景色が見える。
これで何かを思い出せるのだろうか。そう思いつつ、わたしは暫く同じ景色を見続ける。が、わたしには一つの変化も訪れない。身内から浮かび上がってくるものが何もない。わたしは途方に暮れ、一気に疲労感に襲われる。宿を探し、休む必要があるようだ。
わたしがそう思ったときのことだ。円城寺刑事が現れる。が、現実世界にではない。わたしの記憶内に現れたのだ。円城寺刑事とわたしとの直接の付き合いは約一ヶ月間だ、という。その間の記憶なのだろうか。けれども、わたしの記憶の中の円城寺刑事は笑っている。その姿を見ているわたしも笑っているようだ。いったい、どんな光景なのだろう。殺人犯と刑事が互いに笑い合うなんて……。普通には想像できない。あり得ないシチュエーションだ。
もしかして、わたしは以前から円城寺刑事を知っていたのか。円城寺刑事はそんな態度を一切示さなかったが……。それとも記憶の混在なのか。
わたしは様々に考える。けれども答は浮かばない。わたしがまた途方に暮れる。
仕方がないので公園を出、宿泊施設を探すことにする。が、その前に服を買う必要があるだろう。盗んだ財布の中に数万の金があり、本当に助かる。いずれ、わたしの身の潔白が証明されれば、数倍にして持ち主に返さなければならないだろう。靴の持ち主も同じだ。この靴を盗んでいなければ、わたしは今頃またベッドで拘束されていたかもしれない。
それにしても不思議なのは、あのときわたしを助けた、あの文字だ。送り主はいったい誰なのだろう。まさか、わたし自身と言うことはあり得るだろうか。
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