第16話 十分で万全

 午前8時59分。時計の針はもうほとんど12の文字盤を指している。


「あ、もうチャイム鳴りそうだから自分の席に戻るね」


 あれからしばらく陽菜を見守りながら靜慈と話していた萌が時間に気付いて、自分の席へと戻って行った。

 彼女が去ってすぐに始業のチャイムが鳴り、それと同時に神無が教室に姿を現した。さらにそのすぐ後ろを、今まで姿を見せなかった秋人が遅れて教室に入ってきた。


「何やってんだ、お前」


 神無は一度立ち止まって後ろを振り向くと、自分の背にいる秋人を睨んだ。


「いや~お手洗いに行っておりまして」


 秋人は自分のつむじ辺りを撫でながら苦笑いをする。


「そうか。初犯だから今回は見逃してやる。次は無いぞ」


 神無はそう言うと、顔を元に戻して教卓に移動した。

 秋人もその場でへこへこと謝ると、そろりそろりと自分の席に着いた。そんな秋人様子を生徒たち、特に靜慈と誠はどこか呆れた表情で眺めていた。


「えー、この時間はまず朝礼を行う。とりあえず起立」


 不意を突かれたかのように、生徒たちがガタガタと音を立てながら席を立つ。


「礼。着席」


 昨日のこともあり、生徒たちの動きは一般の学校のソレとは違うとてもキレのある動きだった。

 ただ、陽菜のような死にかけている者を除いての話だが。


「とりあえず皆さん朝のランニングお疲れさまでした、と。毎年のことだがだいたいのやつの顔を見るだけでお前らの苦労が分かるよ」


 神無の労いの言葉に応じて、陽菜の顔に少しだけ生気が戻る。


「しかしだ。酷だとは思うが休みの日以外は毎日それをやってもらう」


 薄々そんなんだと思っていた、と言わんばかりに靜慈はそれを聞いても平静を保っていた。しかし靜慈の隣にいる陽菜はそうもいかないようで、少しだけ戻ったはずの彼女の生気が一気に顔から消え失せて、それと同時に彼女の首と腰からスッと力が抜けた。

 ガンッ、という音と共に陽菜の額が机にぶつかる。


「……おい、大丈夫か、お前」


 呆気にとられた神無が陽菜を見つめる。


「あ゛い゛……だいじょうぶです……」


 陽菜はぶつけた額をさすりながら、よろよろと力なく立ち上がった。


「……」


 果たして本当に大丈夫なのかよく分からない陽菜の返事に神無は一瞬沈黙した。しかし、すぐにそれを自ら破るように咳ばらいをして再び口を開いた。


「まぁ彼女のように絶望する気持ちは分かるがくれぐれも忘れないように毎日やってくれ。やってく内に慣れるはずだ。それじゃあ、一限が始まるまであと10分あるからそれまでに少しでも休んでおけ。以上」


 神無はそう言うと、教室の隅にあった椅子に座った。

 生徒たちは彼の言葉を聞いた途端ほとんどは机に突っ伏して休み始めてしまったが、教室最後列の隅にいる旭のように窓から外をぼーっと眺めたり、同じく後方にいる萌のようにおしゃべりに興じる者もわずかながらいた。

 一方で靜慈も疲労でダウンすることはなかったが特にやることもなかったので、ただ大人しく席に座っていた。隣の陽菜は死んだように机に伏し、その逆隣の誠はまた一心に本を読み始め、さらに後ろの席の秋人からは他の誰かと会話をしている声が背に聞こえたので、誰かに話しかけることも躊躇ためらわれた。

 誰も自分の席を立たず、その同調圧力に呑まれた靜慈はやることもなく暇だったので、とりあえず授業の準備をすると、だらーんと全身の力を抜いて、うわの空でただボーっとしていた。


(萌のやつ、あんなに元気だったけど冷静に考えたら体力おかしいな、あいつ)

 

 暇を持て余した靜慈が、腑抜けた顔でそんなことをふと考えていた時だった。後ろから何者かが靜慈の肩をぐいっと掴んだ。


「うわっ」


 全身の力を抜いていた靜慈はその手に容易く引っ張られ、勢いよく後ろを向かされる。


「んで、こいつが靜慈」


「はぁ」


 靜慈が半ば強制的な形で振り向いた先に秋人がいるのはもちろんのこと、秋人の右隣りの席にいた黒髪ロングヘア―且つ右側の目だけにかかるほど長い前髪を持つ男子生徒が、その前髪で隠れていない左目から冷たいようなそうではないような何とも言えない視線を靜慈に向けていた。


「おい、せいじ、とか言ったっけ? お前に聞くがこの秋人とか言う奴はいつもこんな感じなのか?」


 突然に前後の文脈も何も分からない質問を投げかけられた靜慈は、それがどんな意図を持つ発言なのか分からず一瞬戸惑ってしまう。

 しかし、明るすぎる表情を浮かべる秋人と、どことなくわずわしそうにしている男子生徒の顔から、ある程度は質問の意図を汲み取ることができた。


「俺も長い付き合いじゃないからそんな分からないけど……確かに、秋人は馴れ馴れしすぎるというかフレンドリーすぎるというか、明るすぎるというか……まぁそんな感じだと思うけど」


「そうか」


 その男子生徒は困ったように息を吐いた。

 そしてその隙を捉えたかのように、秋人が割って会話に入ってきた。


「靜慈に紹介しておくと、こいつは俺の隣の席にいた下総しもふさ 十全じゅうぜん。ついさっき友達になった」


「俺は友人と認めたつもりはないんだが」


 十全と言われたその男は、肘をついた右の手で前髪をかきあげた。


「まぁまぁ。そんなこと言わないで仲良くしようぜ~」


 秋人が十全の肩を叩く。


「ほら。お前はなんか暑苦しい感じがするんだよ。それより、どっちかっていうとお前の方が俺と気が合いそうな雰囲気があるんだけどな」


 十全は秋人の手を払いのけ、靜慈の目を見る。


「え、俺は?」


 遠回しに避けられた秋人がつっこむ。


「改めて言うが、俺の名は下総十全。歳は18だ。よろしく頼む」


 十全は秋人そっちのけで靜慈に手を差し出した。


「あ、はい……。えっと、俺の名前は阿由葉靜慈で歳は15、です。こちらこそよろしくお願いします」


 靜慈はぎこちなく手を伸ばし、2人は握手を交わす。

 2人の視界の端で、「ちょっとねぇ、俺は?」と言う秋人の姿が映る。そんな秋人を十全は鬱陶しそうに無視し続ける。


「歳は違えど同級生だ。かしこまらなくていい」


「あ……はい」


 ここでついに自分だけ蚊帳の外にされていた秋人が2人にしびれを切らし、今までの呼びかけだけに留まらず、十全と靜慈の肩を掴んで揺らし始めた。


「なぁちょっとー。俺とも仲良くしてくれよ~」


 十全の長い髪が、彼の身体と共に揺れる。


「人との距離感ってものを学んだら考えなくもないぞ」


 秋人にそう言う十全ではあったが、実際のところ彼の顔は楽し気に少し笑っていた。

 靜慈もまた、十全の言動と態度の不一致と微妙に息が合っているような2人の様子が愉快で自然と口角が上がっていた。

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