第15話 登校

 午前8時45分。

 始業時刻まで残り15分。靜慈はこの時間ギリギリになってようやく登校していた。

 靜慈はあの後、8時頃には朝食を済ませていたが、今までのんびりと支度をしていたせいでこの時間になってしまっていた。

 そのため、靜慈が教室に到着したころにはもう既に大勢のクラスメイトが登校していた。

 靜慈が教室に入ると、まず最初に自分の隣の席で陽菜が死にかけている様子が目に入ってきた。陽菜は椅子に座ったまま背を曲げて額を机の上に乗せた状態で、さらに手が重力に従うままに床に向かって垂れさがっていた。顔は机と髪に隠されていたため彼女の表情を見ることはできなかった。

 一方で、陽菜とは逆の左隣の席では、誠が姿勢よく本を読んでいた。

 誠は視野の端に靜慈を見つけると、一度本から目を離し、靜慈に向かって挨拶代わりに小さく手を挙げた。対して靜慈も誠に向かって軽く手の平を見せると、それを確認した誠は再び本に目を落として読書を再開した。

 そして靜慈の後ろの席の秋人だが、彼の席には鞄が置いてあるだけで本人はそこにはいなかった。

 入り口で立ち止まっていた靜慈は陽菜の前を通り、寝ているのかどうかはよく分からないが、とりあえず彼女に振動が伝わらないようにと鞄を机にゆっくりと置いて自分の椅子に座った。

 陽菜の様子が気になって靜慈が彼女の方を向くが、陽菜はそのだらしない格好からピクリとも動かない。


「……おはよう」


 声をかけてみるが返事は返ってこなかった。

 ただ、注意深く陽菜の方に耳を向けるとかすかに彼女が呼吸する音が聞こえるので、とりあえず死んではいないことは分かった。

 陽菜はそんなような調子で全く反応せず、誠は話しかけづらいほど真剣に本を読み、秋人や萌もパッと見て今この教室にはいないようだったので、靜慈は特にやることもなく、ただぼーっと周りを見ていた。

 教室内は数人の生徒が会話をしているくらいで、学校の朝とは思えないほどの静かな空気に包まれていた。それもそのはず、ほとんどの生徒は陽菜のように固まって動かずにいたのだ。

 そもそも早朝の過酷なランニングの後なので、陽菜のように朝から生気がないの生徒の方が普通であり、むしろ誠や靜慈らのように普段通りに動いている方が異常だった。

 そしてしばらくの間、靜慈が何も考えずボケーっと始業時刻を待っていると、すぐ近くの扉が開いて2人の女性生徒が教室に入ってきた。

 そのうち1人は手に1本、もう1人は2本のペットボトル飲料を持っていた。


「げっ……」


 扉の開く音で現実に意識を引き戻された靜慈がその音の方を見るや否や、驚きのような、しくじったかのような声を漏らした。

 まず靜慈の目線の先には昨日自分を殴り飛ばした赤髪の女、齎藤・カルルグレン・旭がいた。

 さらに、旭の隣には靜慈が良く知る幼馴染の萌がいた。

 靜慈は、多くの生徒が疲れた表情をしている中でいつもと同じように明るく元気溌剌げんきはつらつな顔をしている萌の予想以上のタフさにももちろん驚いたが、それ以上に自分と親しい人間とその真逆の人間が並んでいることに対して驚きを隠せなかった。


「あっ、靜慈来てたんだ」


 教室に入った萌はすぐに靜慈に気が付いた。

 そして萌のその言葉で旭も靜慈の存在に気が付いたのか、萌の優しそうな視線とは真逆の鋭い視線が靜慈に飛ばされた。


「あ、あぁ。ついさっき」


 依然として人ではない何かを見るように睨みつけてくる旭を前に動揺して、靜慈の声が少しだけ震えた。


「チッ」


 靜慈の返答と同時に旭が舌打ちをする。

 そして旭はすぐさま萌の方を向いた。萌へ向ける旭の目は、普通の少女のような穏やかなものだった。


「私、向こう行くね」


 旭は萌にそう伝えると、靜慈の方に目もくれずすぐにこの場から離れていった。


「……」


 萌は離れていく旭の背中を見つめた。


「本当はもっといい子なんだけど……」


「そんなことよりお前、いつの間にあいつと……」


 萌が旭と一緒にいたという事実を靜慈はただただ疑問に思うほかなかった。


「いやー、昨日気付いたんだけどね。私、旭ちゃんと寮の部屋が隣同士だったんだ。今まで物音ひとつしなかったから誰もいないのかと思ってたけど、昨日学校から帰った時にばったり会ってさ」


「へぇ」


「あんなことがあったからちょっと怖かったし、その時の私は多分、靜慈が殴られたことにちょっと腹を立ててたんだと思う」


 話題に出されている旭本人は教室の後ろの方の席に座っているが、万が一聞こえることがないようにと、萌の声が小さくなる。


「なんで俺が殴られたことにお前が腹を立ててるんだ……」


 靜慈は首をかしげる。

 それと同時に萌の頬が少し赤らんだ。


「まぁまぁそれはそれとして。そう、私も、旭ちゃんを最初そんな風に思ってたけど、それ以上にやっぱり気になるじゃん、旭ちゃんのこと」


 「まぁ確かに」と靜慈はうなずく。


「しかもあの顔と名前。ヨーロッパ系なのは確実なんだけど、きっと旭ちゃん、北欧系のハーフだよ」


 萌の声が一段と小さくなる。


「この時代にだよ? このヨーロッパのほとんどがもう存在してないこの時代だよ? 滅多にないよこんな機会」


 2100年現在では穴と使者によりヨーロッパ諸国がほとんど滅びているため、ヨーロッパ系のハーフは珍しかった。

 ヨーロッパ諸国の中でも、ドイツ等含めた北欧諸国が一部を除いて崩壊したのは数年前の出来事ではあったが、自分たちと同年代のハーフの存在は、彼らのような若者にとっては非常に珍しい存在だった。


「それでまぁ、旭ちゃんのへの恐怖とか怒りもあったけど、何よりも好奇心が勝って、話しかけたの」


「それで?」


 靜慈は頬杖をついて、簡素に相槌を打つ。


「それでね、いざ話しかけてみたらそんな恐怖とかが吹き飛ぶくらいにはいい子だったの。私に対しては普通に接してくれるし、睨んでもこないし。なんならむしろ優しいし可愛かったよ」


「えぇ……ほんとかよ」


 靜慈は自分が旭から受けた仕打ちから、萌の言うことを半ば信じることができなかった。


「本当だよ。さっきまですごい普通の女の子だったんだから」


 萌が靜慈の目を見て訴える。その目からは嘘偽りが何一つ感じ取れなかったので、靜慈はとりあえず納得せざるを得なかった。


「靜慈は多分あの時、旭ちゃんの心の気軽に触れちゃいけないところを触っちゃったんだよ。ほら、誠君だっけ? あの子も旭ちゃんと同じ理由で怒ってたでしょ? 正義かお金かみたいなヤツ」


「そうだな」


 靜慈は昨日のことを思い出した。

 

(確かに旭の時とだいたい同じ理由で誠と言い争いをしていた。でも、誠とはもう和解したし、俺に向けられていた敵意は圧倒的に旭が俺に向けたものの方が大きかった)


「きっと誠君は心に余裕があったんだよ。だから靜慈のことを受け入れたんだと思う。でも旭ちゃんは多分違う。靜慈に怒りをぶつけた理由は誠君と似てるかもしれないけど、旭ちゃんは彼以上に深い所で何かを抱えているんだよ。だって旭ちゃんの横顔、いつも怒りと悲しみの感情しか見せないんだもん」


 萌の手に持つペットボトルから水滴が滴る。


「だから靜慈はさ、昨日旭ちゃんと知り合ったばっかの私が言うのもなんだけど、旭ちゃんのこと悪く思わないであげてよ。私からも旭ちゃんに靜慈はほんとは悪い奴じゃないって説得するからさ」


 真剣に、かつほんの少し悲しげな眼差しで萌は靜慈を見つめた。

 真面目な表情の萌に詰め寄られ、靜慈は頬から手を離す。


「あ、あぁ……分かった」


 靜慈はまだ昨日の出来事に思うところがあったが、萌の雰囲気に呑まれ、そう返答するしかなかった。

 靜慈の肯定的な反応を見て、萌は微笑んだ。


「ところで、さっきまで2人で何をしてたんだ?」


 靜慈が話題を別の方向へ逸らす。すると萌の顔が一瞬にして、何か大事なことを思い出したかのようなものに変わった。


「あー! 忘れてた! そうだよ、私、陽菜ちゃんのために飲み物買いに行ったんじゃん」


 萌は靜慈の質問そっちのけで陽菜の方を向いた。


「おーい陽菜ちゃーん。大丈夫ー? 飲み物買ってきたよー」


 萌は陽菜を軽く揺さぶる。

 すると萌にゆさゆさと揺り動かされた陽菜はおもむろに、むくりと頭を上げた。陽菜の顔は何日間も徹夜をし続けている人間と同じくらいやつれていた。そして陽菜はかすれた声で「ありがとう……」とだけ言うと、萌の手からスポーツドリンクを受け取って、音を立てて勢いよく飲み始めた。

 

「萌って陽菜とももう仲良くなったのか?」


 二人の様子を隣で見ていた靜慈は、2人の関係が気になって訊いた。秋人と誠、萌と旭のように、自分の知らないところで周りの人間関係が進んでいることに多少なりとも思うところがあった。


「ううん、さっき会ったばっかりだよ。学校に来る前に寮の廊下で、多分朝のマラソンのせいだと思うけど、陽菜ちゃんがふらふら歩いてたから、私と旭ちゃんが一緒に付き添ってきたの。そう、それでさっき飲み物を買いに行ってたんだよ」


「そういうことか」


 靜慈は満足そうに頷いた。

 それと同時に、萌は陽菜の年齢を知ったうえで「ちゃん」付けの愛称呼びをしているのか、それとも年齢を知らずに純粋に小さい子供と話す感覚で愛称を使っているのか、という疑問が浮かんできた。

 しかし別にそのことを今言う必要もないだろうと、靜慈はそれを内に秘め、面白半分に黙って2人を見ることにするのだった。

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