声にならない訴え

 家の中に入ると、子供が二人いた。一人は手に癒着してしまっている煤塗れのミニカーを廊下に擦り付け、もう一人は焦げてしまって板と化しているスケッチブックの上で手を回している。廊下の突き当りの小窓から差し込むわずかな日光の中、健気に日常を送っていた。


 肌は随分と痛ましいことになっているが、先ほど窓から見えたヒトガタとは違い、こちらはところどころ、水膨れ程度で済んでいる箇所があるようだ。


「こんにちは」


 合歓が声をかけると、子供たちは顔を上げ、好奇心の灯った瞳でこちらを見た。


「こ……ち、わ」


 ミニカーで遊んでいた方の子が、たたどたどしい声で返事をしてくれた。火の手に気管支をやられてしまったのか、声だけ聞けば年齢も想像できないくらいにしゃがれてしまっている。

 右近の隣で、しゃくり上げる声がした。


「嗚呼……空ちゃん! 海くん!」


 柿津畑が涙ながらに名を呼ぶと、二人は目を丸くして立ち上がり、とてとてと近づいてきて、彼の足にひしとしがみついた。


「痛かったよね、熱かったよね、苦しかったよね……」


 柿津畑は小さな背中を抱き締め、愛おしむように撫でる。

 右近はふと、今の柿津畑の腕の位置と、二人の背中の水膨れになっている箇所が重なっていることに気が付いて、その意味するところに目頭が熱くなるのを感じた。


「……父親が最期まで抱き締めてくれていたんでしょうね」

「みたいだね」


 合歓は頷いて、子供たちの隣に屈みこみ、視線の高さを合わせた。


「私は合歓。こっちは右近くん。一樹おじさんのお友達なんだ。よろしくね」


 彼女が微笑むと、子供たちは彼女とこちらを交互に見て、おっかなびっくりとした様子で頷いた。人見知りをする質なのかもしれない。


「ええと、車を持っている君が、弟の海くんかな?」

「いいえ、逆です。その子がお姉さんの空ちゃん。絵を描いていたのが、海くんです」

「しまった、私としたことが、ジェンダー的先入観で決めつけをしてしまったあ!」


 柿津畑に訂正された合歓は、手のひらで額を打ち、児童向け番組の悪役が「やーらーれーたー」と叫ぶような大げさな調子で仰け反った。

 きっと言っている意味は理解していないだろうが、それでも子供たちは笑ってくれた。口角を上げようとして、焼けて固まった皮膚がぱりぱりと音を立てる。

 合歓は一緒になってにししと笑うと、そのまま視線を柿津畑に向けた。


「決めつけといえば、柿津畑さんにもお詫びします。子供は大人の態度に敏感ですから、あなたがお父さんとお母さんの敵だと認識していれば、こんな風に懐きはしないでしょう」

「子供に罪はありませんからね。もっとも、葉二や綾芽にも罪はないが……。それにこの五年で、私自らここに訪れることは出来ずにいたんです。酷い大人ですよ」

「それでも今日、カンゾウを植えに来た。素敵だと思いますよ」

「はあ、カンゾウ……?」


 きょとんと目を瞬かせる柿津畑に、合歓は意味深な笑みを返すだけである。

 右近は思わず眉間を押さえた。普段から合歓と行動を共にしているから自分は意味を理解できたが、赤の他人からすれば、柿津畑のような反応が普通なのだ。頭のいい変人は会話を一足飛びにすると聞いたことがあるが、何も一歩目を飛ばさなくてもいいだろうに。


「君が空ちゃん、君が海くん、だね。うん覚えた。お父さんはどこかな?」

「こ……ち」


 二人はぱっと身を翻すと、鬼ごっこをするかのように走り出し、振り返ることなく廊下の角を曲がって行ってしまった。

 右近たちは靴を履いたまま上がり、子供たちの後を追うことにした。

 途中の部屋をドアの隙間から覗き込みながら、合歓が「いい家だね」と唸った。


「見てみろ右近くん。あの食器棚なんか、すごくお洒落だぞ」


 促されて部屋を覗くと、セピア色の思い出があった。オープンキッチンのリビングが、文字通りそのままに焼き付いている。


 合歓が指した食器棚は、皿の飾り方もさることながら、天井との間に差し込まれた二つの耐震ポールの隙間空間を利用して、フラワーバスケットを上手いこと配置していた。残念ながら何の花を飾っていたのかは判別できないが、きっと、溢れんばかりの彩りがあったことだろう。


「綾芽でしょうね。あいつは内装をいじるのが好きでした。学生時代には、私たち兄弟が家を建てて、綾芽が内装を担当したすごい家を造るんだって、誓い合ったものです。……今となっては、叶わない夢となってしまいましたが」

「柿津畑さん……」


 右近は何と言っていいかわからず、目を伏せた。喧嘩をするほど仲がいいとか、喧嘩をしない人はいないだとか、人がぶつかり合うことを肯定する言葉がある。しかし期せずしてわだかまりに弛み、軋んだ状態で喪われては、遺った者の感情の行き場はどこが相応しいのだろうか。


 そうこうしているうちに、廊下の角から顔を出した双子にから「おそい」「こっち」と咎められてしまった。合歓が苦笑気味に謝りつつ、気を取り直して奥へと向かう。

 廊下の奥はすぐに突き当る構造になっていた。待っていたのは、ひとつのドアだけ。


「ここは、葉二の書斎です」

「なるほど。それじゃあ、二階から見ていたのは綾芽さんの方だったかな」


 視線の正体を探りつつ、合歓がドアノブに手をかけようとするのを、小さな手が止めた。


「おとうさんを、おこらないで」


 海がバツの悪そうな瞳で、消え入るように言った。


「うん?」

「おとうさんは、わるくない」


 空も合歓のカーディガンの袖をつまんで、引き留めようとしている。


「大丈夫。怒ったりなんてしないよ。お姉ちゃんたちは、お仕事の話で来たんだ」


 二人の頭を撫でてやってから、合歓はドアノブを回した。

 部屋の中は雑然としていた。本来なら奥にあるだろう執務机が、部屋の入口近くに押しやられ、本棚から引き抜かれた本が散らばっている。書類の日焼けを嫌ってか天窓しかない小さな書斎。一度火に巻かれれば、逃げ道はなかっただろう。


「おとうさん、あそこ」


 双子が駆けて行ったのを視線で追いかけて、本が積まれた一角に気が付いた。火の手によるものか、消火・救助の過程で崩されたのかはわからないが、円を描くような土台から察するに、そこでバリケードを作ろうとしていたことは窺えた。

 その中心部で蹲り、身を震わせていたのは、大人のヒトガタだった。


「葉二……なのか?」


 柿津畑が声をかけても、反応はなかった。肩を叩いても、背中を揺すぶっても、葉二がこちらを振り向くことさえない。


「俺だ、一樹だよ。わからないか。おい、何か言ってくれないか」


 右近たちも近づいてみる。そこで、葉二が何事かをずっと呻くように呟いていることに気が付いた。ただそれは、スポイトを押しただけのような、空気が漏れるだけのものだった。


「もしかしたら、火災によって喉がやられているのかもしれないね。柿津畑さん、彼は生前から、こんな感じなんですか?」


 合歓の問いかけに、柿津畑は首を横に振った。


「大人しい奴でしたが、気が弱かったという風ではなかったはずです。困っている人に手を差し伸べたり、いじめっ子に掴みかかったりと、正義感の強い奴でした」

「聞きそびれていましたが、どうして葉二さんの方が先に社長に?」

「葉二は勉強ができたんです。バスケに打ち込んでばかりで勉強はからっきしだった私とは違い、こいつは大学の試験でも、いつも上から片手で数えられる順位にいました。卒論も海外のサミットで発表したくらいで。建築系の論文だったので、父の目に留まったのかもしれません」


 合歓はそうですかと、顎に手を当てて考え込む仕草をした。

 右近は、父親を前に物寂しそうに立ち尽くしている子供たちを見て、下唇を噛んだ。


「このままでは、意思疎通ができないのでしょうか」

「いいや、もう一人いるだろう。私たちに反応してくれる人物が」

「……ああ、そうか。綾芽さん!」


 右近が手を打つと、合歓はウィンクで返し、「さあ、今度はお母さんだぞー」と子供たちの背中を押して、書斎を出た。

 右近は、よちよちと歩幅の小さい彼女たちを追いこして、先にドアを開けておくことにした。

 全員が通ったことを確認してから、一度振り返り、葉二の背中に会釈をしてドアを閉める。

 その時不意に、視界の端に赤い色が現れたことに気が付いた。顔を上げると、眼前に焼け爛れた顔があった。薄い唇は焦げてぶら下がり、歯がむき出しになっている。


「うわあ!」


 右近は思わず声を上げて飛び退いた。狭い廊下なので、すぐに背中が壁に当たってしまう。

 声を聞きつけて振り返った子供たちが、口を揃えて「おかあさん」と呼んだ。柿津畑も茫然としながら「綾芽なのか」と呼びかけた。


「こらこら右近くん、女性に対してうわあとは失礼だろう」

「現れ方が問題なんです! ドアの陰にいることないじゃないですか!」

「あはははは、君が色男だから、真っ先に接触したかったんじゃないかな」

「その発言の方が失礼だと思いますよー」


 右近は合歓に半眼を向けてから、驚かせてくれたヒトガタ――綾芽も軽く睨んでおいた。

 改めて見ると、彼女の体も凄惨な有様だった。人は外見ではないとは言うが、体の原型を留めていることと、その表面が失われていることは、どちらが良いだろうか。


 そんな風に痛ましい彼女の中に、ふと、右近は違和感を覚えた。綾芽の肩が若干左に傾いているのだ。その原因を探るべく視線を下ろして、左足の足首が関節に逆らって捻じれていることに気が付いた。


「左足が折れている……?」

「おや、本当だ。この角度だと、元々足が悪かったとかいうレベルじゃないね。死者は亡くなった前後の姿で時間が止まる……と考えると、火事の過程で負ったと考えるのが正解かな」

「あの。足は、どうされたんですか?」


 右近は綾芽に訊ねてみたが、返答はなかった。正確には、声を出そうとしてくれているのだが、葉二同様、言葉として発することができないようだった。

 困惑か、焦燥か、綾芽の瞳が忙しなく動くものだから、右近もどうにか汲み取ってやりたいと気が逸った。口の動きは焼け付いていて不可。燃えて固まっているのか、彼女は身じろぎもできないようで、ボディランゲージさえままならない。


「どうしましょう、合歓さん。これでは綾芽さんとも意思疎通が図れません……」

「焦るな右近くん。君の優しさはよくわかるけれど、少し落ち着きなさいな」


 合歓はあっけらかんとこちらの肩を叩くと、綾芽の前に立って、その目を見上げる。


「二階からここまで来たということは、移動は出来るんですよね。ちょっとそこまで移動してもらうことはできますか」


 合歓が廊下の角を指さすと、少しの間があってから、綾芽はつう、と床の上を滑るようにして移動した。歩くように足を動かすことはなく、ホバー移動のようだ。どうりで、階下へ降りてくる彼女の足音に気付かないわけである。


「よおし、これなら大丈夫だね。ちょっと力を貸してもらいますよ、綾芽さん。私が質問をするから、イエスなら近づいて。ノーなら離れて。いいですか?」


 それに、綾芽はわずかに手前へ近づいてきた。合歓は満足そうに頷くと、目を細めた。


「まず最初に確認を。解体工事を止めていたのは、あなたですね?」


 綾芽は、ゆっくりと近づいてきた。

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