櫻の樹の下

 カフェでお目当ての飲み物をテイクアウトした後で、ぐるっと遠回りをすることにした。


 町の中心部より少し山側を通る川沿いに、山側から跳ね返る風を防ぐことを兼ねて植樹がなされた並木道がある。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬はイルミネーション。四季折々のどこを切り取っても何かの色が踊っているいることから、カラーロードの通称で呼ばれる。



「いい天気だ。気分もいいし、たまには風景の絵でも描いてみようか」



 合歓はフラペチーノの生クリームを唇でついばみながら、歩道から外れたところの空きベンチを見つけて腰を下ろし、鞄からスケッチブックを取り出した。

 彼女はきょろきょろと周りを見渡してから、少しの間景色と睨めっこをしたまま言う。



「さっきのカンゾウとシオンを出して、持ってみてくれるかい」



 右近は言われるがままに、紙袋からプリザーブドフラワーのボトルを取り出した。

 もう少し上、ああそこ。そう。そのまま右に――。指示を受けて行きついたのは、合歓の視線が桜の花の部分に重なるところだった。



「桜を描くわけじゃないんですか?」


「それだけなら、全国どこだっていいだろう。私は『カラーロード』に新しい色を加えたいんだよ。カンゾウの橙とシオンの薄紫。雅やかじゃないか」



 合歓はいたずらを思いついた子供のように笑って、スケッチブックに鉛筆を走らせた。

 時折、ボトルを上げたり下げたりすることを指示された。桜の輪郭と、カンゾウやシオンの位置を上手いこと重ねているのだろう。



「そういえば、桜の樹の下には屍体が埋まっている、なんて散文詩があったね」


「あれは、不安になる程に美しく咲き誇る桜に対して、その理由を腑に落とすために夢想したものです。実際に埋まっているという話ではありませんよ」


「美しい透視術、だったっけ」



 人はしばしば、物事の裏に別の意味を問おうとする。ただの空想に過ぎないと笑い飛ばされるような仮説であっても、時にそれは己を励まし、慰める。果てには、世間の『桜の開花』への価値観をがらりと変えてしまう文学となることもある。



「もし、屍体が埋まっているのが事実だったとして。それは、桜の下だから埋めたのかな。それとも屍体が埋まっているから桜が芽吹いたのかな」



 合歓の声色が、剃刀のような鋭さを孕んだ。けれどそれは右近に向けられたものではなかった。スケッチブックに向かって闇雲に振り回しているようにも感じられる。



「僕は、後者の方が好きです。自分の死を、美しい桜が慰めてくれているようで」


「なるほど、そういう見方もあるね」


「合歓さんは?」



 訊ねると、一瞬だけ、鉛筆の音が止まった。



「私が屍体の側なら、怒っているね。勝手に人の上に生えては、毎年散ってくれるんだから。私から養分を吸うのなら、せめて年中花をつけていて欲しいものだよ」


「じゃあ、合歓さんが屍体を埋めた側なら?」


「……わからない。土葬以外で死体を埋める人間の思考なんて、理解できないからね」



 合歓は何かを睨みつけるように目を細めて、下唇を噛んだ。かと思うと、ふっと相好を崩す。



「ただ、どうせ埋めるのなら、桜の下の方が良かったのかもしれないとは思う。――ああ、ボトルは一旦下ろしていいよ。ありがとう」



 促された時、右近は腕が張りそうになっていたことに気が付いた。相変わらず、現物を前にした合歓の筆さばきは早かったが、それでも半端な位置に腕を上げ続けるのはくたびれる。


 合歓の背後に回り込んでスケッチブックを覗き込むと、本来は地面から生える種類の花が木々に成っている、奇妙で幻想的な風景のラフが出来上がっていた。



「カンゾウとシオンの話もそうさ。鬼は弟の心意気を褒めたようだけれど、肝心の父親本人はどうだったんだろう。どういう事情か、鬼が墓守をするような人物だ。私が父親なら、鬼のいる場所になんて子供に近づいて欲しくないけれどね」



 合歓はボトルを取り上げて、日の光に翳した。



「それに、兄の方が親を慕う心が薄かったとも思えない」


「そうなんですか?」


「本来、カンゾウは初夏が見頃。シオンは『十五夜草』の別名の通りに秋が見頃。当時は現代のように開花時期を操作する技術もないだろう。そんな中、今昔物語において、兄について先に触れられているということは?」


「兄の方が四ヶ月近くも先に花を植えている……?」


「そういうこと。原典では『その後』の一言で端折られているけれどね。私は他にも、弟の行動の節々から、本当に父親を慕う心があったのか、疑問に思っているよ」



 合歓がベンチの隣を叩いたのに従って、右近は隣に並んで腰かけた。手渡された桜餡の抹茶ラテは、ほんのりと桜餅のような酸味があって爽やかだ。この美味しさが屍体の汁によって引き出されたものではないことを願うばかりである。



「弟クンはね、自分がシオンを植える時、兄に対して『前のようにお墓参りにいらっしゃいませんね』と嫌味を言っているんだ。あんたは忘れたようだけど、私は忘れないんだよってね」


「合歓さんがわざとトゲつけて言ってるような気がしますが……まあ確かに、そう取れる発言ではありますね」


「だろう? 一番酷いのは、鬼から声をかけられた時さ。『お前の心が伝わった。だから予知能力を授けよう』。そう告げられた弟は、涙を流して喜んだそうだ」


「親を思う心が認められたのなら、別に不思議じゃないのでは?」


「そうかな? 弟が自身の行動を是だと考えているのなら『そうするのが当然と思ったまで。予知能力なんて要りません』と突っぱねるのが第一声であるべきだ思うけどね」



 足をぱたぱたと投げ出してフラペチーノを吸い上げる合歓に、右近は言葉を返せずにいた。


 ふと川の対岸に、父親の腕にしがみ付いてはしゃぐ、幼い兄弟の姿が見えた。彼らはいつかの未来、萱草と紫苑の選択を迫られた時、どうするのだろうか。



「見方を変えれば弟は、カンゾウを以て前を向くことを決めた兄と対照的に、いつまでもシオンにしがみ付くファザコン。あるいは、兄に対抗して花を植えた挙句、父を悼むのではなく父を悼んでいる自分を認められて喜ぶエゴイスト。そういう風にも解釈できるんだよ」


「じゃあ、父親を忘れまいとした弟の方が悪いってことですか?」


「いいや? 忘れること、忘れないこと自体に是非はないよ。事実、その物語の締めの言葉はこうだ。『喜しき事有らむ人は紫苑を植えて常に見るべし。憂い有らむ人は萱草を植えて常に見るべし』。何を思ってそうして、何をしていくかが重要なんじゃないかと思う」



 じゅぽんとカップの底を鳴らして、合歓は空いたカップを袋に仕舞った。


 右近は、主の代わりにベンチに置かれたスケッチブックと、桜の木を交互に身ながら、ラテをちびちびと呷った。


 屍体が埋められているというショッキングなワードは、一人歩きをして、今や誰もが知らず知らずに聞き知っているほどになっている。


 ならば、桜と死を重ねることで心を落ち着かせた男は、どういう心境だったのだろう。



「桜に重ねていたのは、自分自身だったのかも」


「うん?」


「一つ前の話です。梶井基次郎は、結核の療養をする中で『櫻の樹の下には』を書きました。本作は桜から惨劇を見出すデカダンスとされていますが、桜に見出していたのは、自分の死に対する覚悟ではないでしょうか」


「興味深い考察だね。たしかに彼が評価されはじめたのは死後だ。『櫻の樹の下』の三年後、死の淵にて覚悟の合掌をし、その夜に永眠したという」



 戻って来た合歓は、拾い上げたスケッチブックを抱き締めるようにして座った。



「私もいつか、死を受け入れられる日が来るんだろうか」


「合歓さんにも、怖いものがあったんですね」


「勿論あるさ。絵に関してだって、創作絵を描くのは手が震えてダメだ」



 自嘲気味に笑って、合歓は今しがた描いた絵の表面を指で叩いた。



「コレみたいに、現物を組み合わせて疑似的に作るのならまだ大丈夫なんだけどね。例えば、そうだな……巷で人気のイラストレーターのように、架空の美少女は描けない。正確には、描くだけならできる。けれど、人前に出すものとして描くのが怖いんだ」


「何かあったんですか?」


「中学校の美術の時間に、自由に思い浮かべた架空の風景を描くという授業があったんだ。私は、鬱蒼とした森を描いた。冒険に踏み込む期待と不安が入り混じった、瀬戸際のドキドキ感をね。けれど、先生やクラスメイトからはドン引きされたよ」



 右近はかたかたと小さな音が鳴るのに気が付いた。合歓の靴底だった。彼女は震えるのを必死に堪えるようにしていたが、足先までは制御しきれていないようだ。



「私の親なんか、精神科に連れてってくれたよ。優しいよねぇ。後日、絵がコンテストで入賞したんだけど、評価は変わらなかった。『芸術に関わる人はやっぱりおかしいんだ』ってさ」



 早口で過去を走り抜けてから、まるで長い時間水の中にいたかのように、合歓は空を仰いで大きく息をした。唇を舐めて潤そうとしているのを見て、右近が飲みかけのラテを掲げて見せると、合歓はごめん、と弱々しく受け取って、一気に飲み干した。



「それ以来、怖いんだ。感性だとか、イマジネーションを否定されるのが。だから、『エリンギ』が売れたと聞いた時には本当に驚いたんだよ」


「そうだったんですか……」



 右近はどう言葉をかけていいかわからず、目を伏せた。不意に、視界の端で長い髪の毛がたわむのが見えて顔を上げると、合歓が頬をむすっと膨らませてこちらを覗き込んでいた。



「な、なんですか?」


「勝手に話したとはいえ、私だけなのは不公平だ。君も何か怖いものを言いたまえ」


「そんなことを言われましても」



 今度は右近が空を見上げる番だった。記憶はないから、過去のエピソードに付随した苦手意識のようなものはない。今の仕事内容にも、いわば上司にあたる合歓の態度等にも不満はない。


 食べ物の好き嫌いも、今のところ未発見だ。いっそ饅頭怖いでお茶を濁そうかと思案しながら、風景をぐるっと見回していた時、ちくりと背筋に引っかかるものがあった。



「あ、山が怖いです。あの山」



 この町を見下ろすようにそびえる小山。標高は三百もなかったはずである。



「あのって……あそこ限定?」


「はい。前に散歩がてら登ってみようと思ったんですが、薄暗くて、足が竦んじゃって」


「それは、道を間違って入ったんじゃないかい? 大通りから進めば、山頂の展望台付きキャンプ場まで一本道だ。クマの報告もない山なんだし、怖がることないだろう」


「かもしれませんね。ぶらぶら歩いていただけなんで」



 合歓が笑い飛ばしてくれたから、右近も自然と笑うことができた。自分でも、あの山に対して恐怖心を持っているのは自分くらいだろうということは理解している。あくまで強いて挙げれば、というだけなのだ。



「ともかく、登山中に何かあったら敵わない。一人では行かないことだね――おっと」



 合歓は言葉の途中で、鞄から鳴り出したスマホの着信音に振り返ると、取り出した画面に表示された名前を見て、「仕事のようだ」と肩を竦めた。

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