月明かりの伝言

 五十鈴家を訪ねると、すでに通夜の準備が佳境のところらしかった。喪服の人々が右に左にと駆け回る中、待ちかねた苛立ちで顎を突き出した父親に出迎えられる。彼は玄関口から上げもせず、その場で手のひらを突き出してきた。


 合歓が深く頭を下げてから、紫色の風呂敷の結び目を解く。父親は、まだ風呂敷を広げきらないうちにキャンバスを引っ手繰ると、絵を見るなりぎょっと目を見開いた。


「馬鹿にしているのか、あんたは!」


 粛々とした場に憚らない大きな怒声に、弔問客たちの視線が集まった。何ごとかとざわつきが起こる中で、それらの問いに答えることなく、父親はふうふうと激昂した肩を上下させている。そうしているうちに、外にいた人たちもが様子を見に集まって来る。

 右近が剣幕に呑まれてしまっている一方、合歓は顔色一つ変えずに静かに問いかけた。


「畏れ入りますが、不手際がございましたか。もしや、娘さんではなかったとか」

「娘ではあるが、娘ではない!」


 台所の方から、五十鈴蘭に目元のよく似た母親が小走りでやってきて、父親の脇からキャンバスを覗き込み、あっと顔を覆って崩れ落ちる。

 その態度を自分の同意と受け取ったらしい父親は、さらに顎を上に向けた。


「うちの娘は、こんな顔をしたりしないんだ! いつも辛気臭い顔をして、何を考えているか解ったもんじゃない奴なんだよ。笑顔なんて、幼稚園の頃以来見たことがない!」

「しかしこれは、蘭さんと対面して描いたものです。彼女は笑って逝かれましたよ」

「貴様……ッ!」


 父親は遺顔絵を床に叩き付け、下唇を巻き込んだ般若の形相で拳を振りかざした。

 右近は咄嗟に合歓の前に割って入る。向こうでも、母親が縋るように引き留めていた。


「笑って逝っただと? まるであいつに会ったみたいじゃあないか」

「はい。件の場所に赴き、直接お話をさせていただきました」

「舐めるのも大概にしろよ。俺が世間知らずに見えるのか? どこかで娘の写真を手に入れたんだろうが、詐欺には引っかからないからな! おい、誰かこの女に蘭の写真を渡したか?」


 父親は奥へ向かって叫んだ。襖を取り払った空間には、喪服の弔問客の他に、学生服を着た生徒が十数人座っていた。彼らは父親からの問いに、慌てて首を横に振る。


「やめてください、あなた!」

「うるさい! だいたいお前が、こんな胡散臭い奴に依頼なんかするからだ!」


 父親は母親を払いのけ、ずかずかとキャンバスの上を踏み荒らしながら奥へ向かう。残った母親が、口の部分に成人男性の足大のへこみ傷が付いてしまった娘の遺顔絵を抱き寄せ、彼女の名前を呼びながらさめざめと涙を流している。


 いたたまれずに右近が目を逸らすと、通夜会場の奥に、全身に包帯を巻かれた小さな体が横たわっているのが見えた。あの折れ曲がった手足がまともな形を成しているところを見ると、エンバーミングを担当した人は相当に苦心してくれたのだろう。それには少し、ほっとできた。


「私は失礼させていただきます。お代も結構ですので。お邪魔致しました」

「えっ、帰っちゃうんですか?」


 右近が思わず声を上げた。しかし、合歓はさっさと身を翻してしまう。

 彼女が敷居を跨ごうとしたところで、その背中に白い塊がぶち当たり、ぱっと粒状に飛び散った。振り返れば、ビンを逆手に持って投球の姿勢をしている、目の色を変えた父親がいた。


「帰れ! 人の死に群がって飯を食う、汚らわしいハイエナが!」

「ちょっと、そこまで言うことないじゃないですか!」


 右近が食ってかかろうとした、その瞬間だった。ぴしゃりと破裂音が鳴ったかと思うと、塩の入っていたビンが落ちて鈍い音を立てた。

 父親を引っ叩いたのは、母親だった。父親ははじめ呆気に取られていたように口をぽかんと開けていたが、状況を咀嚼するごとに、顔を怒りの皺で歪めていく。


「お前、誰に向かって手を上げたのかわかっているんだろうな!」

「娘の笑顔を奪った、最低な父親に対してです!」


 父親の怒号さえ掻き消すような、悲鳴にも似た訴えの声だった。

 母親はキャンバスの裏から丁寧に絵を押し戻し、どうにか戻って来た娘の笑顔と向かい合うと、キッと涙を振り払って真剣な表情をして座敷へと振り返った。


「これが私の娘の笑顔。あんたたちがバケモノ呼ばわりした笑顔だ! 見ろ! 見なさいよ!」


 はっとして視線を逸らそうとした生徒たちに詰め寄り、眼前に遺顔絵を突き付けて回る。


「どこがバケモノよ、どこがキモイのよ、私の目を見て言ってみなさいよ! あんたたちが蘭を殺したんだ! そこのバカ亭主は、『クラスメイトも参列してくれるなんて、慕われてたんだな』とかほざいていたけれどね、私はあんたたちのことを許さないから! 何度キッチンから飛び出して殺してやろうと思ったか。でもね、殺してなんてやらないわ。蘭が悲しむから!」


 唾を飛ばすくらいに怒鳴り散らす母親の姿に、父親はふらふらとした足取りでいる。


「凛子……お前。そんなこと一度も」

「話そうとしても、いつもあんたが頭ごなしの説教で潰すんでしょうが! あんたもだ、あんたが蘭を突っぱねなかったら、蘭は自殺なんて選ばなかった。幼稚園以来笑顔を見たことがない? あの子から笑顔を奪ったのは、他でもないあんたなんだよ!」


 母親は父親の胸倉に掴みかかり、見た目からは想像できないくらいに揺さぶって叫んだ。何度目かの「あんたのせいで」の後で、ようやく周囲が止めに動き始める。

 押し寄せる人の波の中、合歓は会釈を残して出て行ってしまった。受付の列に並んでいた人たちの注目は、現場からただ一人去る彼女の背中と家の中の様子とを往ったり来たりしている。右近は途端にこの場に一人ぼっちになってしまった気がして、慌てて後を追いかけた。


 弔問客らのものだろう路上駐車の列を通り過ぎ、しばらく歩いたところで、合歓が空っぽの風呂敷をひらひらと振り回して遊びながら、けらけらと笑いだした。


「あー、怖かったね。塩を撒くにしても、ビンの中丸ごととは思わなかった。ビンごとじゃなくて良かったよ」

「笑いごとじゃないですよ。あんなの、あんまりです。悔しいですよ、僕」


 右近は拳を握りしめる。俯いた胸元に、風呂敷ヌンチャクから柔らかくビンタをされた。


「そういえば怒ってくれていたね、ありがとう。けれど、人の死を飯のタネにしているのは間違いないからね。まして彷徨う霊と会って遺顔絵を描いたなんて。アレが普通の反応さ」

「そんな反応が普通だなんて、ぜったいおかしいですよ。せっかくの絵も踏みつけるなんて」

「それはどっちに怒ってるんだい、右近くん。私が描いた絵が踏みつけられたこと? 蘭さんの描かれた絵が踏みにじられたこと?」

「どっちもです」


 右近はぶすっと唇を尖らせた。確かに合歓が罵られたことが胸のわだかまりのスイッチではあったが、五十鈴蘭への哀悼の気持ちがなかったわけではない。


「あの葬儀、どうなるんでしょう」

「さあね。私らは絵を届けるだけ。その後の事情に首を突っ込むのは野暮だよ。元々葬儀は千差万別。国や宗教によっても違うし、人によっても違う。笑って送るのか、泣いて送るのか、だれを呼ぶか、式の規模はどうか。あるいは……式そのものが崩壊することだってね」


 合歓は手元で風呂敷を折りたたみながら、夜空を見上げた。


「あとはお母さんが頑張って戦うさ。――あ、月にいい感じで雲がかかってる」


 彼女はいそいそと指で死角を作って、空に向かって翳した。月の下弦がおぼろに滲んでいる。


「もうちょっと左、そう、そう……ああ違うっ! なんでよぉ!」


 駄々っ子のような拗ねた声を出して地団太を踏む合歓の隣を、二台並んだ自転車が通過していく。部活の帰りだろうか。ユニフォーム姿の少年二人がマスクをせずに談笑している。

 だから、聞こえてしまった。「わ、あの提灯、バケモノんじゃね?」「やべえ、前通ったら俺ら呪われたりして!」などという、下卑た言葉が。


「あいつら……っ!」


 右近は二人の背中を睨みつけた。人の死をなんだと思っているんだ。彼女が自ら命を絶つに至った苦しみを、なんだと思っているんだ。


「誰が呪ってやるか、バカヤローッ!」


 不意に聞こえた叫び声に振り返れば、合歓が月に向かって叫んでいた。

 一瞬静まり返り、直後にゲラゲラと少年たちの笑い声が起きる。それを真似するように、また合歓もぎゃははと下手くそな笑い方をした。背を向けたままで。その華奢な肩を小刻みに震わせて。――拳をわなわなと握りしめて。


「合歓さん……」


 右近が声をかけると、すぴっと鼻をすする音の後で、合歓が振り返った。


「さあ、コンビニでコーヒーでも買って帰ろうか。バースデイケーキが待ってるぞ」


 腰に手を当てて後ろ歩きをする笑顔は、ふにゃふにゃの無邪気なものだった。目が少し赤いのは、月明かりの影がそっと隠してくれている。

 代わりに、絵を描く時以外は下ろしている彼女自慢の髪を、青白い光のラメが抱き締めるように照らしていた。まるで姫彼岸合歓というおくりびとに、後光が差しているように。


 右近がはっと空を仰げば、月にかかった雲は風にずれて、笑った口元のようだった。

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