遺顔絵師~はじめての花束を、君に~
雨愁軒経
第一章 壊せないカンゾウ
HAPPY BIRTH DAY
薄暗い月明かりの下で、
ひたり、と耳元で雫の弾けたような音がした。海の匂いのする水分が首筋に飛び散ってきたような感覚に首をよじれば、その目の前を、ヒトガタが落下していく。
十五歳の少女。髪型や背格好も聞いていたものとおおよそ一致している。
肉塊の砕けた音がした。人間の体は大半が水分で出来ているが、まずは骨が叩きつけられ、それから肉の弾ける音が鳴る。この仕事に携わるようになって、一番知ったことを後悔した生々しい音だ。
右近は申し訳なさと、一抹の安堵に深呼吸を一つして、足を引いた。
足場のあるところまで戻って待つ。来ると分かっているせいか、時間が経つのが長く感じられる。しばらくして、削り取られたコンクリートの縁からぐちゃぐちゃに潰れた頭部が現れ、断面から球形を保っていない目がこちらを見上げてきた。
「私……きれい?」
右近は微笑んで頷き、縁にしがみ付く小さな手を引き上げた。
少女の霊の手を引きながら、懐中電灯の明かりを頼りに廊下を進む。
「ごめんなさい、受け止めてあげられれば良かったんですけど……階数までは聞いていなかったんです。まさか、もっと上からだったなんて」
腕も脚も捻じ曲がっている少女は、右近を杖にするように縋り、足を引き摺って歩いている。
「歩くスピードは辛くありませんか? もう少しゆっくりの方がいいですか?」
訊ねてみても、少女は首を横に振るだけだった。目がぐるんと動いたのは遠慮からのものなのか、本当に平気だからなのかは、表情のない彼女から窺うことは難しい。
たっぷり時間をかけてエレベーターホールまで辿り着くと、稼働のしていない無機質な廃墟の空間が、いくつかの小型投光器によってまばらに照らし上げられていた。
「お待たせしました、
声をかけると、ホールの中央に設置されたキャンバスの向こうで台車の上のクロッシュを覗き込んでいた一つ結いのしなやかな金髪が、ぴょこんと持ち上がった。
「ん? ああ、もう会えたんだね。さすが」
ゆったりと琴の弦を鳴らしたような穏やかな声で、彼女は立ち上がった。左の小脇に抱えたパレットが、投光器の光と暗闇の狭間で、虹色の宝石のように煌めく。
「こんばんは。君が、五十鈴
「いがおえし……似顔絵師じゃないんですか?」
少女が首を傾げると、ぱきっと頸椎の軋む音がした。
「そ。写真を遺せないまま亡くなってしまった人の、遺影を描く仕事だよ」
合歓が悼むように目を細くして、健気に立っている少女の頭をくしゃっと撫でてやる。
「ご遺体の顔を見て似顔絵を描くのが一般的だけれど、私はちょっと特殊でね。君のように、顔を見ることが出来ない人の絵を引き受けているんだ」
少女があっと声を漏らし、ぎこちなく身じろぎする。
「良かった。その様子だと、君は自分が死んでいることは理解しているみたいだね」
まるで泣き出すのを堪えるように、こくこくと小刻みに首が縦に振られた。そんな少女をあやすように、合歓は血塗れの手をそっと取り握ると「よろしく」と呟くように言った。
「それじゃあ、蘭さんの絵を描きたいのだけれど。まずは、大変なことになっているその顔を綺麗にお化粧しようか」
「……どうやって?」
「悩みを吐き出すんだよ。苦しかったこと、辛かったこと、ムカついたこと、不安なこと、やり残したこと。そういうのはすべて娑婆世界――つまり、この世に捨てて行っちゃうんだ。荷物を背負ったままじゃ、天には昇れないからね」
「無理だと、思います」
「どうして?」
「私の顔は、人前に出すものじゃないって言われたから」
「うわあ、酷いね。誰だい、そんなことを言える人でなしは」
「みんなです。ウィルスが落ち着いて、マスクを外してもいいってなって。でも、私は外したくなかった。そうしたら、まるでマスクをしていることが悪いことみたいに、無理矢理取られて。私の顔を見たクラスのみんなが『キモイ』『バケモノ』って……家に帰って親に、学校行きたくないって相談した、けどっ……『そんな辛気臭い顔してるから言われるんだ』って……!」
言葉に嗚咽が混じり、跳ねていく。さっきまでは肉の中に埋もれているように見えた瞳も、今でははっきりと訴えてきているのがわかった。
双眸の強い光を合歓は真っ直ぐに見つめ返して、うんうんと相槌を打ちながら、吐露されるすべてをじっと受け止めていた。
「……別に、自分がキモイのは自分で判ってます。でも、だからって、そんなによってたかって叩かれなきゃいけないんですか」
「そんなわけないじゃないか。断言する。蘭さんは可愛いよ」
合歓はきっぱりと切り捨てた。
「信じられません。貴女のように綺麗な人に、私の気持ちなんて――」
「私が美人だからこそ、解るんだよ」
おどけたように胸を反らして見せ、合歓は自分の髪を指先にくるくると絡めて持ち上げる。
「この髪、綺麗でしょう。すごく気に入っているんだ。指で梳けばさらさらだし、つやのあるブロンドだし。でも私の地毛は遺伝のせいか、小さな頃から白髪交じりでさ。おまけに癖っ毛で、湿気のある日は一時間くらい蒸らしてやらないといけない。今日だって、君に会うのに、昼から準備してた――もとい、こちらの優秀なアシスタントにセットしてもらったくらいさ」
合歓が照れたようにかんらからと喉を鳴らすのに、少女は戸惑ったような視線でこちらへ救いを求めてくる。それに右近は頷いた。
「本当です。酷い時は、髪の毛で人を殺せるんじゃないかってくらい、やばいんですよ」
「そういうこと。君の辛さはよく理解できるし、その状態をバカにされたらどれほど痛いかも、自分のことのように想像できるよ。だから安心して欲しい」
右近の言葉にくすくすと丸めた肩が、合歓の言葉ではっと伸びた。その動作で荷物が振り落とされたかのように、すうっと少女の全身からこびりついた血が薄れて消え、やがて、痛ましい肉塊だった顔に表情が戻っていく。
「うん、やっぱり周りの連中は見る目がないね。髪は結んだまま? 下ろす? ちなみに私のおすすめは、下ろす方」
「……じゃあ、下ろしで」
「よし来た、頼むよ右近くん」
「はい、お任せを」
合歓が颯爽とパレットを翻し、キャンバスに戻るのを尻目に、右近は苦笑しながら少女の前に立つ。一言断りを入れてから彼女のヘアゴムを外して、前髪から肩口まで手櫛を入れた。
きっと周囲の罵倒を受ける前から自信がなかっただろう毛束は、ずいぶんと強張ってしまっていた。綺麗だと語り掛けながら、丁寧にほぐしていく。ここには君と、僕と、合歓さんしかいないから。思う存分伸びをして、みっともなく欠伸をしても、誰も咎めることはしないから。
一度体を離し、色んな角度から眺めて、何かが足りないことに気が付いた。服だ。くたびれてしまったままの制服の袖や襟が彼女の笑顔を翳らせてしまわぬよう、ぱりっと伸ばす。
不意に、少女は自分の体から発された光の粒に驚き、体を強張らせた。
「大丈夫ですよ。その光は、君がこの世を旅立つ合図ですから。――合歓さん」
「当たりは付いてる。さあて、しゅぱぱーんっと描き上げてしまおうか」
合歓は腕まくりで気合を込めてから、キャンバスにすばやく筆を走らせていった。ライトから零れる丸い光の粒が、彼女の持つ筆やパレットをきらきらと照らし上げる。それはまるで、黄金の蓮の葉が踊っているような、力強い神秘性だった。
これが姫彼岸合歓の妙技である。目の前の被写体が持つ美しさを在りのままに描き出す技術と、それに要する時間の短さは、右に出るものはいない。
霊というものは、亡くなった時の姿で彷徨う。彼ら彼女らが成仏する
毛先とキャンバスの間で絵具が練り広げられる音。切り替えられた絵筆が、待機している仲間たちとハイタッチをする音。右近と五十鈴蘭がじっと浅く呼吸をする音。
闇夜の静かなオーケストラは、指揮者の「よし」という頷きによってフィナーレを迎えた。
「出来た。へへ、仕上がりはどうかな?」
美容師が鏡を拡げるように、あるいは子供が良い点数を採ったテスト用紙を出してみせるように。合歓はキャンバスのスタンドを持ち上げ、少女に見えるように向きを反転させた。
「きれい……私じゃないみたい」
「正確には『君じゃなくなる』だ。右近くん、蘭さんに例のものを」
右近は合歓の背後に回り、台車を少女の前に運んだ。クロッシュを持ち上げれば、中央に無骨な仏壇用蝋燭の突き刺さったホールのショートケーキが現れる。
右近が蝋燭に火を灯す手元を、少女は目を瞬かせて凝視している。
「誕生日ケーキです。今日を以て死に、生まれ変わる君への」
「仏壇の蝋燭を息で吹き消してはいけない理由を知っているかな? あれは、息を吹きかけることで穢れがかかってしまうからなんだ。これは、それを逆手に取ったお
パレットと筆を置いた合歓が、慎ましやかに手拍子をしながらキャンバスを回り込んでくる。
「ハッピー
悪戯っ子のように傾げた小首に促され、既に向こう側が透けて見えるくらいになっている少女は、面映ゆそうにはにかんでから、頬をいっぱいに膨らませた。
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