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第18話
好きな人なんて、今までずっといなかった。
「―—よろしくな、貫之!」
道明寺爽助という男は、その一瞬で貫之の心を鷲掴みにした。
サッカーに励む彼は、少年でいてまるでアイドルのように、飛び切りの笑顔を見せる。夕焼けの情景が、永遠の様に等しく輝いていた。
1年の1学期。
会話の内容なんて覚えていない。相槌を打っただけかもしれない。会話の体は保っていたはず。そもそも、どうやって貫之と会話することになったのかも記憶が曖昧だ。
しかし、会話らしい会話はそれきりだった。庭先の花壇を愛でるが如く、遠くから眺めるだけ。彼と親交を深めることなんてなかった。
2年生になるとクラスは別々となり接点はなくなった。
たった一度、会話をしただけ。友達でもない。クラスメイトでもなくなった。
全てを諦めていた。
しかし、ある日の放課後。それは突然、何の前触れもなく訪れる。
「―—あれ、貫之じゃん」
ピアノを弾いていた手元が狂う。教室の入り口に視線を送ると、ここにいるはずもない人物——爽助がこちらに向かって手を上げていた。
心臓が口から飛び出そうだ。
「え、ええ! えっと、名前、憶えててくれたんだ」
「んだよ、当たり前じゃん。それよりも貫之ってピアノ弾けるんだな。スゲエ」
「い、いやぁ。もう現役は引退しちゃったけど」
「そうなんだ。でも続けたら? 絶対有名になるでしょ」
「……そう言って貰えるのは嬉しいよ」
再びピアノの鍵盤に触れる。
「だけど、上には上がいるっていうのが……ね。爽助もサッカーやってればわかるでしょ?」
「んーそうだな。いるよ。オレなんかよりもずっと強ぇーヤツ。だけど、オレなんかよりもずっと弱い部分ってのがあるんだよ。でもそれはサッカーの中じゃなくて、私生活とかさ。オレが見ることの出来ない場面なんだよな」
爽助が白鍵をド、ミ、ソ……と飛ばし飛ばしに弾く。
「自分の中で絶対に負けないことがあれば、どんなにスゲーヤツでも勝てる
時、場面が来る。そう思えば、精神的に楽じゃね?」
「そのマインドが凄いよ」
「でも、そこに至るまで十数年もかかってさ。しかもサッカーに関係ないトコでサッカーやってない人に教えて貰ったんだ。だから、貫之も思わぬ場所で思わぬ人に何かを教えて貰えるかもしれない。それまで諦めんなよ」
「それは……」
「合唱コンクールで上の賞取りたいから練習してたんだろ?」
「ッ!」
来週に行われるクラス対抗での合唱コンクール。そこで貫之はピアノを任されていた。せっかくなら賞を取ってみたい。そう思って放課後にピアノの練習をしていたのだ。
「たしか、普通の賞とは別枠で、ピアノの出来を評価する賞があったよな。そっち狙ってんの?」
「いいや、それこそ今の僕は狙えない。合唱の方でだよ」
「なんだよ。せっかくいい話をしてやったんだから狙ってみろよ」
「……そうだね。ありがとう狙ってみるよ——ところで、どうして爽助はこんな場所に来たの?」
音楽室は教室からかなり離れた位置にある。相当な用事がなければこんな場所を通りかかることはない。
「ヤベ! 部活の集まりがあったんだった! じゃあ練習頑張れよ!」
「爽助もね」
爽助は大慌てで音楽室から出て行った。
「……ふぅー」
緊張して手汗がびっしょりだ。
うまく話せただろうか。
悪い印象を与えていないだろうか。
様々な感情と会話の記憶が頭の中を駆け巡り、残りの昼休みの時間はピアノの練習など出来たものではなかった。
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