第9話



 時間はあっという間に過ぎ、ほとんど記憶の無い古文の授業が終えると放課後になった。


「今日の部活短いから、終わったら一緒に帰る?」


「うん。それじゃあ待ってるね」


 瀬里奈と爽助の会話が嫌でも耳に入って来た。


 昼休みに言っていたことは嘘じゃなかった。目の当たりにした現実に再び胸を打ちひしがれた。


 下唇を噛んで、どうにか負の感情を抑え込む。


「色坂」


「……ばう゛ぃ?」


「何してんの」


 貫之が嫉妬に満ちたいろはを呆れた表情で見下ろしていた。


「……悔しいから我慢してた」


「そりゃあ僕もだよ。それで、理科室に行くんだろ」


「うん」


 瀬里奈を避けるように、いろは先を行く貫之に続いて教室を出た。


「失礼しまーす」


「失礼すんな」


 1階の長い廊下の先にある理科室。その扉を開けると、白衣を着た女子生徒の背中が、2人を出迎えた。


「もう失礼してるし」


「この馬鹿。呆れる。さっさと私の理科室から——」


さんって噂だけ聞いていたので知らなかったんですけど、女の子だったんですね」


「その声………」


 桃は身体を硬直させ、ゆっくりと後ろを振り返った。


「桜庭、貫之……っ!?」


「どうも。どうして名前を?」


「なっ、そりゃあ、知って――いや、ぐ、偶然名前を覚えていた、それだけだ!」


 小学生から付き合いのあるいろはでも、ここまで動揺している京樹は見た事がなかった。


「それと、私はではない。桃だ。覚えておいてくれ」


「いつもは教授って呼ばれても否定しないくせに」


「いろはが男を連れてくるなんて思いもよらなかったからな。これは長い付き合いになるかと思ったんだ」


「あのね、そういうんじゃないから」


「そりゃもちろんわかっているさ。中学の時みたいな失態を、いろはにさせはしない」


 いろはは中学の時、色恋沙汰で桃の助言を無視して大失敗してしまった過去がある。桃の責任ではないのに、引き目を感じているのだ。


「……彼もまた、同性が好きというやつだろ」

 

「まぁそういうこと」


「いっ、いや、僕はそういうんじゃ」


「大丈夫、桃は何も気にしないよ。それに、ここにきた時点で数分も経てばバレちゃうよ」


 桃は無言で頷く。彼女は言動と恰好に目を瞑れば、成績トップの優等生。頭が大変キレる生徒なのだ。アイが気まぐれで出す数学の捻くれた難問も、難なく解いてしまう。


「いろは、さては何も説明せずここに連れて来たな」


「あー、そういえばそうだったかも」


 いろははてへっと舌を出した。


「ったく、すまないな桜庭。いろはの頭のネジは3本ほど飛んでいる。悪意はないんだ許してやってくれ」


「同じクラスで1カ月も過ごせば、どういうヤツなのか、なんとなくわかります」


 貫之はいろはに冷たい視線を向けるが「私いま、ディスられた?」とよくわかっていない様子だった。


「そいつは結構。——それで、何の要件だ。私だって暇じゃない」


 桃は奥の棚からマグカップと紅茶のパックを持ってくると、ガスバーナーに火を着けた。そして、ビーカーに水を入れて温め始める。


「あのね」


「暇じゃない」


「瀬里奈に彼氏が出来たの」


「だからひまじゃ……——七尾に? まぁ学年変わってひと月も経てば、カースト上位の女子はお飾りの彼氏ぐらい持つものだろうし」


「そ、爽助はお飾りなんかじゃない!」


 貫之が声を荒げ、桃は肩を少し震わせた。そして桃は、いろはと貫之を見比べると額に手を当て深い溜息を吐いた。


「はぁーーーっ……。そういうことか。はいはい、ご愁傷様。2人で傷を舐め合うなんだな。紅茶1杯ぐらいなら作ってやるから、さっさと帰って枕を涙で濡らしてこい」


「非情だなこの教授」


「だからマッドサイエンティストって呼ばれるんだ!」


「勝手に呼んでろ」


 桃は地面を蹴ると椅子を1回転させた。





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