始業時刻は午前9時
あの晩、吉野兄は魔人となり、吉野弟は兄に代わって吉野製作所の取締役社長となった。吉野兄……ブルーディアボロスはもはや人間の法が及ばぬ存在だ。だからもう会社の経営ができない。
弟はぱちぱちとノートパソコンのキーボードを叩いて取引先への連絡メールを編集する。社長の交代、それから業務はこれまで通りに問題なく行う旨。早く知らせなければいけない。
「ああ~……ほかにやることは……」
弟は気忙しげに壁にかかった行動予定表へと目をやる。行動表には四つのマグネット。吉野(ニ)、吉野(ヨ)、Null岡、それから桃井。
「にいちゃん、桃井さん休み~?」
「午前半休!」
「病院寄ってから出社ね。また胃の調子悪いのかな」
弟はよいしょと重たげに立ち上がると、赤いホワイトボード用マーカーで桃井のマグネットの横に午前休と書き込んだ。
ウィィィィィ……しゃりしゃりしゃりしゃりしゃしゃしゃしゃしゃ。就業時間前だというのに旋盤で金属を削る音が絶え間ない。台所の掃除はまだ半ばで壁や天井に煤や血痕が残っているうえ、新しい冷蔵庫は手配中だが、工場は兄が人間をやめる前とあまり変わらない。
更衣室の扉がギィと開き、顔色が紫のNull岡が薄汚れた作業着姿で現れた。始業時間三分前だ。
Null岡は朝の挨拶もそこそこに、怪しい足取りで弟のそばに近寄る。
「吉野君吉野君、ちょっとおカネ貸してほしいな~って」
「またムシュフシュ?」
「ちがうって。もっと確実なやつ!正月のさ、太陽の船券に賭ける!日の出一着レースに賭けんの!」
「ちょっとは懲りろよ」
弟がいくらすげなく断ろうと、なあなあなあ社長サンとNull岡はしつこい。冷蔵庫の中のハムのように冷たい腕でなれなれしく肩を抱こうとし、その手を払っても払っても伸ばしてくる。
「俺さ~ニッキさんの眷族にされちまったから口座が凍結されちゃっておカネないの。で、ここでひとつ自由に使えるカネがほしいの!ね!」
「もともと貯金なんかゼロでしょ……」
シンプルな壁掛け時計の針が9時を指す。
「始業時間!」
「ぎゃああああ」
ブルーディアボロスは振り向きもしない。だがNull岡は稲妻を受けたように硬直し、その場にくずおれた。
「納期厳守!残業命令!」
「おおおおおおお……」
ブルーディアボロスの鋼のような声に打ち据えられ、Null岡はよろよろと立ち上がると壁にかかった吉野製作所の社章付きの帽子をかぶり、加工待ち品の棚に操られたような動きで歩み寄った。その姿は脳が傷んだゾンビに近い。
Null岡は加工前の素材に添えられた図面を広げ、記載された加工寸法を血眼で追い始めた。弟は力なく笑い、兄の背中をじっと見る。ブルーハワイ味のかき氷みたいな色合いのコウモリに似た羽を几帳面に畳んで、ブルーディアボロスは旋盤を回している。ふと弟の作業服の裾を小さな手が引っ張った。
「おいこれあけろ」
ぐいぐいと悪魔はコーンビーフの缶を弟の足に押し付ける。弟が缶詰を受け取ると悪魔は自分用の事務椅子の上に飛び乗って、置きっぱなしの毛布に包まった。
折り重なった毛布の隙間から二本の角だけがはみ出ている。折れた角は約束通りきちんと接着されて、もう継ぎ目もわからないほど。
「俺の魂ってどうなっちゃったのかな~」
弟はつぶやき、缶詰付属の小さな鍵のようなパーツを取り外すとコンビーフの缶を外側からくるくると巻き取るように開封し始めた。
魂が無くなっても毎日のメシは変わらず美味い。ふくよかな吉野弟の腹が引っ込む日が来ることはなさそうだ。
おわり
悪魔をはねても物損事故(特盛) ベンジャミン四畳半 @uso_chinchilla
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