悪魔おどり
吉野兄は興味なさげに、吉野弟ははらはらと落ち着かない様子で悪魔の奇妙なおどりを見ていた。片角を失った悪魔は頭のバランスが悪いのか、ところところでころり転んだ。そのたびに体をふるわせて毛をまき散らす。
おどりの最後に四つん這いで弟の周りを反時計回りに三回まわる。舞い上がる焦げ茶色の獣毛が鼻に入り込んで弟は大きなくしゃみを一つした。その拍子にふわんと鼻から暖かい何かが抜けていく。
「あ……」
悪魔がぴょんと飛びあがり、綿菓子を巻き取るように片角で弟から抜け出たモヤを絡めとる。やわらかい雲のようなそれはスッと溶けるように消えてしまった。弟はとっさに自分の胸のあたりを叩く。魂を抜かれたというのに体も心も何かが変わったようには思えなかった。
「もらったぞもらったぞ!ほら扉をしめろ!」
悪魔は鼻息荒く、弟に冷蔵庫の扉を一度閉めてから開けるように促した。
「だ、大丈夫かな」
弟はNull岡を冷蔵庫の奥に押し込むように扉を閉めてから、恐る恐る扉を開けて青白いNull岡の姿を確認した。冷蔵庫がまたピーピーと扉の開放を警告するころNull岡はゆっくりと目を開き、大きく震えてくしゃみをし、鼻水と一緒に血の塊を飛ばした。
「Null岡!」
「寒い……せま……」
うなるNull岡の二の腕をつかんで引っ張るが、小さな冷蔵庫に無理やり収まった体はなかなか抜けない。Null岡はぼんやりと弟の顔を見上げた。
「誰だよお前……」
「俺だよ吉野だよ!」
「うぇ……頭いてえ……誰だよおまえ知らねえよ」
目をむいたNull岡の顔は土産物のランダの仮面に似ていた。がこん、とNull岡の頭に刺さったままのモンキーレンチの握り手が冷蔵庫の扉にぶつかった。あ、と弟が声を上げる。
「抜くの忘れてた……」
レンチの頭で潰された部分に弟のことが入っていたのかもしれない。Null岡は「誰だよ…」と弟を下からにらみつけた。
「抜くかそれ」
「ダメ!また死んじゃうよ、にいちゃん!」
弟の肩越しに兄の手が伸びる。兄の顔をみたNull岡は激しく動揺し、冷蔵庫から転がるようにはい出た。賞味期限が切れた納豆のパックや1ピースだけ残った6Pチーズの箱が床に散らばる。
「ぎゃ、ニッキさんすいません!カネはかならず返すんで…その……次のレースが当たるんで三倍にはなります」
Null岡は血色が悪い両手のひらを胸の前でぬるぬると動かした。その軌跡は首が長い四つ足の奇妙な生き物の輪郭を描いている。
「ムシュフシュ券買ったんす!あの……会社のカネ、勝手に借りちゃったんですけど今度のレース絶対当てるって自信が……」
高専卒業とともにパチンコも卒業したNull岡が国営ムシュフシュレースに熱を上げていることは弟だって知っていた。Null岡はしばしば就業時間中にも関わらず、兄に隠れてムシュフシュ新聞を眺めていたからだ。
ぬるぬるした四つ足の龍の着順をあてるだけでカネが転がり込む。まさか会社のカネに手を付けるほどとは。Null岡は愚か。弟は肩を落とした。
「こいつは悪いやつだな、そんでお前も悪いやつ。うばうコロスこわい」
悪魔はトコトコと話の輪から離れると歯ぎしり交じりに言い捨てた。狭く薄汚れた台所の中をそわそわとせわしなく歩きまわり、やっと床にうずくまってもストレス起因の生あくびがとまらない。弟は締まりのない苦笑いを悪魔に向けた。悪魔はふしゅーとため息をつく。
「悪いやつが集まると魔人が来るこわいぞ。魔人、悪いやつをバリバリくう。イヌみたいに鼻が利くこわいやつ」
「へえ…そんなのもいるの……」
弟は首をかしげる。そののんびりとした口調に悪魔は少し落ち着きを取り戻したようだ。
「おまえはマシな人間だな」
「いや俺も悪い奴だよ。だって悪魔をはねたら物損事故だし」
えへへと弟が笑う。悪魔が跳ね起き毛を逆立てる。
「そうだった!!おまえも悪いやつだった!」
悪魔が悲鳴を上げ、ガタガタと冷蔵庫が揺れだす。閉ざされた冷凍室の扉のパッキンから糸のように細いピンク色の光が何本も漏れ出した。
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