第2話

 声が聞こえる。


「おい、そこの」


 誰かが呼んでいるような気がする。ハルアキはその声に導かれるように目を開ける。


「おい、聞いておるのか?」


 ハルアキは顔を上げ体を起こす。そして、眠い目をこすりながら周りを見渡す。


 周囲は暗かった。真っ暗だった。光らしいものはどこにもなかった。


 そこは洞窟かなにかのようだった。ハルアキを呼ぶ声が暗闇の中に反響している。


「だ、誰、ですか?」

「それはこちらの台詞じゃ」


 声の主がどこにいるのかわからない。真っ暗と言うこともあるが、声が反響していてどこから声がしているのかわからないのだ。


 そんな中、ハルアキは手探りで自分のいる場所がどこなのかを確かめようとする。手に伝わる感触は固くゴツゴツして少し湿っている。空気はひんやりとしていてこちらも湿っぽい。


 暗闇の中でハルアキは手を動かす。その手に何かがコツンとあたる。


「あ、あの、ここは、どこなんですか?」

「さて。わしにもわからぬ。それよりも」


 視線を感じる。何も見えない深い闇の奥の奥から何者かの視線をハルアキは感じた。


「それはなんじゃ?」


 それ、とは何だろうとハルアキは戸惑う。


「お前の手の近くにある物じゃ」


 手の近く。それはおそらく周囲を探るハルアキの手にあたった物だろう。どうやら声の主はハルアキのことが見えているようだ。


「これ、ですか?」


 ハルアキは手にあたった物を手繰り寄せ、恐る恐る顔を近づける。


「お稲荷、さん?」


 いい香りがした。それは良く知っている、ハルアキが作った稲荷ずしの匂いだった。


 四角いプラスチックの感触。どうやらタッパーに入ったお稲荷さんのようである。


「おい、それはなんじゃと聞いておるのだ」

「え、えっと、これはお稲荷さん、稲荷ずしと言うもので」

「イナリズシ? イナリズシとはなんじゃ?」

「え、あ、えっと……」


 なんじゃ、と聞かれたハルアキは一瞬困ってしまった。よく知っている物だがどうやって説明していいのか。


「えっと、甘辛く炊いた油揚げにすし酢を混ぜたご飯を詰めたもので」

「アブラアゲ? スシズ?」

「え、あ、その……」


 どうやら声の主は稲荷ずしも油揚げもすし酢も知らないらしい。


「油揚げは豆腐を油で揚げたもので」

「トウフ?」

「えっと」

「トウフとはなんじゃ?」

「えっと、その、大豆を加工した」

「ダイズ? ダイズとはなんじゃ?」


 そこまで説明しなくちゃならないのか、とハルアキは困り果てる。そして、最終的にハルアキはまとめてこう説明した。


「た、食べ物です」


 ハルアキは説明を諦めた。しかし、質問はまだ終わらなかった。


「美味いのか?」

「そ、それは……」


 美味しい、とは思う。美味しいと思わなければ自分以外の誰かに食べさせたりはしない。


 けれど、自分で作ったものを自分で「美味しいですよ」と言うのは躊躇してしまう。美味しいとは思うのだが、人には好き嫌いがあるからだ。絶対に誰にでも、どんな人が食べても美味しい物かと言われると、自信がない。


「ぼ、僕は美味しいと思います」

「ふむ。そうか」


 どうやら納得してくれたらしい。そのことにハルアキはホッと安心するが、まだ何も解決してはいない。


 ここはどこで、声の主は誰で、自分がどんな状況に置かれているのかさっぱりわからないからだ。


 わからないのだが、事態はハルアキを置き去りにして進んでいく。


「お前、それを自分で食うて見よ」

「え?」


 声の主は変なことを言い出した。


「毒見じゃ。わしを騙そうとしておるかもしれんからのう」


 どうやら声の主は警戒しているらしい。理由はさっぱりわからない。


 わからないが、とりあえずハルアキは暗闇の中、恐る恐るお稲荷さんを一つ手でつまみ、口に入れた。


「……ふむ。毒はなさそうじゃな」


 声の主はハルアキに毒見をさせて安心したようだ。そして、毒が入っていないとわかれば、こうなる。


「それをこちらへ寄越せ」


 ハルアキは身をこわばらせる。


「どうした? はよう」


 こちら、と言われてもどちらなのかわからない。それに、怖い。


 もし、声の主がこれを食べて、不味い、と言ったとしたら、どうなるのか。


 何かヤバい気がする。そもそもこの声の主は何者なのかもわからない。

 

 なにか、そう、人間ではないような。


「はよう持ってまいれ!」

「は、はい」


 声の主に急かされたハルアキは暗闇の中でお稲荷さんの入ったタッパーを両手でつかむ。しかし、足元も見えないほど真っ暗では怖くて立ち上がれない。


「あ、あの、暗くて、どこにいるのか」

「まったく。ほれ」


 ぼうっ、と灯りが灯る。真っ暗だった空間に光が現れる。


 光に照らし出された空間。そこはやはり洞窟だった。しかもかなり広そうだ。そして、その洞窟には牢屋があった。


 大人の腕ほど太い鉄格子が洞窟の床から天井までを貫き、広い洞窟の空間を区切っている。洞窟を照らす青白い灯りは鉄格子の向こう側にあった。


 そんな青白い灯りに照らされている何か。


「き、狐?」


 青白い灯りに照らし出された物。それがおそらく声の主だろう。それは鯨のように大きな、九本のふさふさの太い尻尾を持つ真っ白な狐だった。


 鉄格子の向こうから白い大狐がハルアキを睨んでいる。その目は血のように赤く、その視線はハルアキの体を貫くように鋭い。


 威圧感。その姿を見て初めて感じる大狐の迫力。


「さっさとこちらへ持ってまいれ」


 ハルアキは無言でうなずく。なんだかよくわからないが、この怪物に逆らってはいけないような気がしたからだ。


 ハルアキはタッパーを手に持つと立ち上がり、用心しながらゆっくりと鉄格子の方へと歩みを進める。

 

「ど、どうぞ」


 鉄格子の前まで来たハルアキはその前にしゃがみ込み、鉄格子の隙間からお稲荷さんの入ったタッパーを差し入れ、ゆっくりと後ろへ下がる。


「ふむ、よい匂いじゃ」


 ハルアキが鉄格子から離れるとは反対に、大狐が差し入れられたお稲荷さんに近寄り鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。そして、しばらく匂いを嗅いでいた大狐は器用にタッパーを前足の指でつまみ上げるとタッパーごと口の中に頬り込んだ。


 大狐がお稲荷さんを食べる姿を見ていたハルアキはごくりと息を飲む。もし、不味いと言って怒り出したらどうしよう、と不安だったからだ。


 お稲荷さんを食べた大狐はしばらくの間黙っていた。じっと目を閉じて、もぐもぐと口を動かしていた。


「……美味い」


 しばらく黙っていた大狐がぼそりと言った。その言葉を聞いたハルアキは緊張が解け、大きな安堵のため息をついた。どうやらハルアキの作ったお稲荷さんが口に合ったらしい。


 そう、口に合ったのだ。ものすごく。


「あ、あの……」


 お稲荷さんを味わうように目を閉じていた大狐の目が開かれる。その目を見たハルアキは全身に寒気が奔り、恐ろしさに心臓が跳ね上がった。


「美味い。これほど美味い物を喰ったのは久方ぶりじゃ」

「そ、そう、ですか……」

「く、くくくく……」


 突然、大狐は笑い出した。目を輝かせ、白い牙をむき出しにして笑い出したのだ。


「ああ、力が、力が漲りる……」


 ざわっ、と大狐の体毛がざわめく。そのざわめきが周囲の空間に伝染するように洞窟全体が震え始める。


「おぬし、礼を言うぞ。今なら、ここから出られそうじゃ」


 洞窟が激しく揺れ始める。大狐の体毛がゆらゆらと揺れながら光を放ち始める。


 ヤバい。ハルアキは気が付いた。


 なにか、なにかとんでもなくヤバいことをしてしまったのでは、と。


 バキッ、ゴキンッ、と言う音をさせて太い鉄格子にヒビが入る。洞窟全体が激しく揺れ、天井や壁が崩れ始めた。


 まずい。このままでは生き埋めになる。そう慌てたハルアキは出口はないかとあたりを見渡すが、道らしいものはどこにも見当たらなかった。


 出口を探して慌てるハルアキ。そんなハルアキに大狐は目を向ける。


「実に、実に美味であった。礼を言うぞ、人間」


 洞窟が崩壊していく。天井や壁が崩れる激しい音の中でも大狐の声ははっきりと聞こえた。


「生きておったらまた会おうぞ」

 

 ハルアキは悲鳴を上げた。天井が崩れ、ハルアキの頭上に巨大な岩が落ちてきた。


 終わった。と思う時間すらなかった。視界が真っ暗になり、また何も見えなくなってしまった。


 その瞬間。ハルアキに岩が落下する瞬間、激しい耳鳴りがした。

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