秋の章

一、鎮守の森の使い



 この地は、領土の半分を覆う"鎮守の森"を崇め、信仰している。


 森が齎す恩恵は、この地に住む者の守護である。しかしながら、豊かな森には珍しい生き物も多く、不法行為に及ぶ者も少なくない。


 領土外の人間が勝手に入り、精霊の使いとされている動物たちを殺す行為は、この領土に生まれた者たちにとっては、神を殺すようなものである。


 そんな侵犯者たちを森に近付けないために、領主自ら従者を引き連れて見回りをしている。


「今日はなんだか森が騒がしいな。なにかあったのか?」


 鴉たちが喚くように鳴いている。それはいつもと様子が違っていて、緊迫感さえあった。今の領主に変わってから、春夏秋冬、毎日欠かさずにおこなっている事もあり、以前よりはずっと減ったと言っていいだろう。

 

 そんな毎日の見回りをしているからこそ、その異変に気付く。まさか、侵犯者が近くにいるんじゃ、と気を引き締めて、秋色の染まり始めた森の奥へと進む。枯れ葉が舞う中、従者のひとりに名を呼ばれる。


桂秋けいしゅう様、あちらの方からなにか聞こえませんか?」


「え?何も聞こえないけど、」


 この地の若き領主の名を、桂秋けいしゅうという。まだ十八歳の青年だが、前領主である父が二年前に病気で亡くなって以来、この地の主として森を守っている。


 兄弟はおらず、母も幼い頃に他界していた。故に、元老や臣下たちは、まだ若い領主を自分たちで操り、自分たちの思いのままに政を手にしようとしていた。


 が、幼い頃から父の許で、領主とはなにかを学んでいた桂秋けいしゅうは、彼らの戯言を聞き流しつつ、自分の思う理想を追い求めていた。


 皆が皆、敵というわけでもなく、志を同じくする者もいる。今、一緒に行動している者たちは、桂秋けいしゅうの忠実な従者たちである。


桂秋けいしゅう様、ほら、あそこに何か見えませんか?」


「····あれは、」


 赤や黄色に染まりつつある、森の中。楓の葉がひらりと視界を遮り、再びその先に見えた白い物体に目を瞠った。


 色とりどりの葉が舞う中、その先に見えたのは、獣用の罠にかかった白い毛の狐だった。右脚が鋭い刃に挟まれ、弱っているのか、地面でぐったりとしている。


 それを確認するや否や、桂秋けいしゅうは駆けていた。辺りを警戒していた従者たちは、突然走り出した主を遅れて追う。


「····これは、酷いですね、」


りんが聞いたのは、この子の声だったのかもしれない」


「そんなことより、早く解放してあげましょう」


 従者のひとり、三つ年上のりん桂秋けいしゅうの背後から覗きながら助言する。彼のこんな風にどこか焦って急かすような様子を初めて見るが、目の前の光景は確かに急を要しそうだ。罠に囚われている狐のその白い毛が、真っ赤な血で染まる様は、本当に痛々しかった。


「虎挟みだ····こんなものが食い込んだら、人だって大怪我をするぞ」


 獣の鋭い歯のように並ぶその虎挟みの刃は、周りに散らばる不自然な枯れ葉の山で隠されていたのだろう。それを知らずにこの白い狐は踏んでしまい、身動きが取れない状態になったのだ。


 桂秋けいしゅうは、手伝ってくれ、と視線だけでふたりに合図を送る。それにはもう一人の従者が動き、正面に回ってきた。


りんの細腕では無理だろう。ここは俺が、」


 力に自信のある彼は一番体格がよく、背も一番高く腕も太い。三十歳の彼の名は、こうと言った。


 狐はぐったりとしており、人間が近づいても抵抗する力も残っていないようだった。ふたりがかりでなんとか罠を解き、桂秋けいしゅうは懐から傷薬を取り出す。人間用の物だが血止めの傷薬なので、獣にも効くことを祈りながら、酷い傷を負っている右脚にそっと塗る。


「こんな状態で、よく耐えたな。すまない、もう少し早く見つけてあげていたなら、ここまで弱ることはなかっただろうに」


「悪いのは仕掛けた人間ですよ。ここがどんな森か、解っていないんです。当分、見回りの兵を増やしますね」


 りんは解放された狐に安堵し、すぐにいつもの調子で、こんなことをした者を本当に愚かで恥知らずな者だと罵る。


 ここの地の者ならば、森の獣たちを狩ろうなどと言う考え自体、あり得ないからだ。この鎮守の森は、森全体が信仰の象徴なのだから。


「人が森を侵すなんて、ましてや森の民を傷付けること自体、間違ってます。白の神がどれだけ人間のために尽くしてくれているか、外の奴らは知らないんですよ」


「天罰でも与えられるような、厳しい荒神ならまだしも、白の神は癒しの神。守るために存在する守人であるが故に、守護は得意でも攻撃はしない」


 ですね、とりんこうは同時に頷いた。

 正直、桂秋けいしゅうは、その白の神とやらに会ったことなどない。だが、確かに存在しているのだ。

 

 遠い昔から、たくさんの言い伝えがある。そのどれも、優しい話ばかり。


 桂秋けいしゅうは自分の腕に巻いていた布を解き、傷付いた右脚に巻いてやる。傷薬も付けた。後はこの狐の生命力に委ねるしかないだろう。


「これで、少しはマシになると思うが。森の民を連れ帰るわけにもいかないし。なんとか白の神に、この子が会えたらいいんだけど、」


 どんな傷でも癒すという白の神。その力が本当ならば、きっと、怪我をしたこの狐のことも助けてくれるはずだ。


 それに、これ以上は自分たちは干渉することはできない。


「では行こう、」


 桂秋けいしゅうは立ち上がり、他にも同じような罠がないかを確認するために、近場を探索することを決める。あんなに喧しかった鴉たちは、いつの間にか何事もなかったかのように静かになっていた。



 残された白い狐は、遠くなっていくいくつかの足音を確認しながら、安心するようにゆっくりと瞼を閉じた。



******



 ――――数年後。森の葉が、夏の色から秋の色に変わる頃。


 領主の邸の門の前。門番ふたりに、ひとりの青年が身分を問われていた。


 青年は抑揚なく何度も同じ説明するのだが、その内容が突拍子もなさすぎるため、自分たちの判断ではどうにもならない、という結論に至る。


 目の前に立つ青年は、白い衣裳にに赤い帯、長い黒髪を頭の右側で結っている美しい青年で、その瞳はこの辺りでは見たことのない、碧色をしていた。


 髪の毛を飾る赤い房の付いた紐飾りが特徴的で、その表情はどこか儚げ。神秘的という言葉が似合うだろう。


 どう見てもこの地の者でないことは確かなのだが、本人曰く、「鎮守の森の白の神の使い」らしい。それが本当なら門を開けなくてはならないし、嘘なら嘘で、本当の身分を明かしてもらう必要があった。


 門番のひとりは、この怪しくも美しい青年の態度に対して悪い気はせず、だからこそ真偽を確認する必要があると踏んだ。


「では、少し待っていてくれないか?上の者に確認を取る」


 確認を取ると言っても、そもそも元老や領主自身の耳に入っていれば、事前に門番たちに命じているはずだった。


 それがないという時点で、青年が突発的にここを訪れていることになるわけだが、彼を入れる入れないの判断を下すのは、自分たち下っ端の兵には難しかった。


 そんな中、門の扉が勝手に開く。そこに立っていた人物に対して、門番たちは慌ててその場にふたり並んで跪き、深く頭を下げた。


 長い茶色い髪の毛を、低い位置で結んでいる二十代前半の青年が、様子を窺うようにして、門の内側からその外側を眺めていた。


 瞳は、琥珀色。黒い衣裳の上に左半分の赤い衣裳を纏い、右肩に白い紐飾りのついた金色の布を垂らしているその青年は、その状況を見て不思議そうに訊ねてきた。


「どうした?その者は、俺に用事があるんじゃないのか?いつも言っているだろう。民の声はこの地の声。身分など気にせず、通して構わないと」


「け、桂秋けいしゅう様、あ、その、この者は、いつもと事情が違いまして····、」


「は、はい。少なくとも、この地の民ではなさそうでしたので、」


 そうなのか?とこの地の領主である桂秋けいしゅうは、その先にいる青年に視線を移す。白い衣裳を纏う美しい青年は、小首を傾げ、三段ある階段の一番下からこちらを見上げていた。


「自分の事を"白の神の使い"と言うので、正直、どう対処したらいいのかと迷い、上の方々に確認をしようとしていたところでして、」


 そうしている内に、一番偉い領主が出てきてしまったのだ。それに対しては、門番たちが一番驚いている。


「俺は桂秋けいしゅう。あなたの名は?」


 桂秋けいしゅうは屈託のない笑みを浮かべ、躊躇うことなくその青年に問う。


 青年は最初はぼんやりとしていたが、やがてそれに応えるように、その美しい顔に小さな笑みを浮かべた。



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