第9話・秋、2
ちらりと隣を見ると、陛下は格子窓の先に広がる青空を見つめていた。
二人きりだ。そう思うと、なんだか緊張してくる。
「……なんだ?」
陛下はこちらに目を向けないまま、私に尋ねた。
「え?」
「視線を感じる」
この人は、頭の後ろにも目がついているのだろうか。
「……失礼いたしました」
私は視線を手元の書簡に戻し、仕事に戻った。しばらく読み耽っていると、こめかみを、陛下の指先がさらりと撫でた。
「な、なんですか」
思わず身を引きながら見ると、陛下は驚くほど穏やかな顔をして、私を見下ろしていた。世界の時がふっと止まったように感じる。窓から差し込んだ陽光が、陛下の形を美しく象っていた。
「べつにかまわない。もっと見ても」
柔らかな声で、陛下が言う。一瞬、なんのことだと首を傾げるが、すぐに先程の視線のことだと思いいたり、恥ずかしくなる。
「い、いえ、大丈夫……です」
陛下の手が、私の腰元に伸びる。力任せにぐいっと引き寄せられ、距離が一気に縮まった。ふわり、と甘い香りがする。
「ちょっ、陛下! 柏葉さんが戻ってきますから!」
小声で訴えるが、陛下は涼しい顔で「気にするな」とか言ってくる。
「するわ!」
つい、言葉が雑になる。
「私も、もっとそなたのいろんな顔が見たい。見せろ」
目眩がする。女同士ならともかく、異性とこんな近い距離で触れ合うのには慣れていないのだ。勘弁してほしい。
「じ、時間! それから場所を弁えましょう、陛下!」
今は仕事中で、しかもここは執務室。寝所ではない。
「……うん。分かってる」
「分かってません……!」
「分かっていないのはそなただろう。私を拒んでいいと?」
「私は、男です、から!」
「……聞こえない」
「嘘つけい」
私は、耳がおかしくなってしまったのだろうか。いつもの陛下と、まったく違う声のように思える。なんというか、ひっそりとしていて、甘い。
とにかく、この変な空気を取り替えなくては。私はふう、と深いため息を漏らした。
「……あの、陛下」
「ん?」
やっぱり甘い声だ。なんだか背中がむずむずしてくる。
「ひとつ、お伺いしたいことが」
「なんだ?」
「どうしてこんなことになっているのでしょうか?」
「……こんなこと?」
陛下は眉を寄せ、心底不思議そうに私に聞き返した。
「私が女だと分かっているのに、どうして罪を問わないのですか?
陛下は私たちの正体を知ってから、何度も
陛下は雹華妃に会いに行くたび、私も傍付きとして同行させられている。そのたびに私と暁明は心臓が縮み上がる思いをしているのだ。自業自得だと言われればそれまでだが、それにしてもこれはなかなかひどい仕打ちである。
すると、陛下は言った。
「いきなりなに寝惚けたことを言っているんだ? そなたは文官。男だろう」
「えぇ……」
今さらなにを言っているんだ、この人は。ついさっき、私が男だと言ったとき、聞こえないと言ったのは、どの口だっただろうか。都合がいいにも程がある。
「科挙は男しか受けられない。そなたはそんなことも知らなかったのか?」
「……はぁ」
それはつまり、聞かなかったことにしてくれる、ということだろうか。
なんかもう、意味が分からない。
「さて、雹華妃のところへ行くか」
出た。また嫌がらせか。都合が悪くなると、すぐに私を後宮に連れ込もうとするのだから、困ったものである。
仕方なく立ち上がると、陛下に手で制された。
「今日は、そなたは来なくていい」
「え」
「ここで、
とうとう、同行まで拒絶される。
「そうですか……」
ああ、もう。
擦り寄ってきたかと思えば、急に離れていく。
まったくもって、陛下の考えが分からないー!
私はひとり、頭を抱えた。
陛下と入れ替わるようにして、
「暁明。包子ですよ」
「ありがとうございます、柏葉さん」
「陛下は麗和宮ですか?」
「はい。とうとう置いていかれました」
「おや、まあ」
まあいいけど。私はここで、のんびりと包子食べながら仕事するし。
窓の向こうの外廊に、陛下の姿がちらりと見える。
「どうしました?」
「……べつに」
なんとなく、胸がもやもやした。
「もしかして、嫉妬ですか? 陛下がいないと寂しい?」
柏葉さんに言われ、耳まで熱くなるのを感じる。私は慌てて否定した。
「ちち、違いますよ!」
すると、柏葉さんがくすりと笑う。
「……暁明は本当に、生まれてくる性別を間違えましたね」
「……どういう意味です?」
柏葉さんは、私が女であるということを知らないはずだ。
「ああ、いえ。べつに悪い意味ではないのですよ。ただとても女の子らしいので、男にしておくにはもったいないというか……」
「え」
思ってもみない言葉に、私は面食らう。柏葉さんはそんな私を見て、にっこりと微笑んでいる。
「そんなこと、初めて言われましたが……」
いつも男っぽいだとか、美男子だとかしか言われたことはなかったのに。
「陛下は、あのようにお美しいですからね、あまり男臭い者を近くに置かないのです。以前、とある武官が陛下にいたずらをしようとしたことがありまして……」
柏葉さんはげんなりした顔で遠くを見ている。
「
「それはあなたもでしょう。あなた、結構女官から人気があるのですよ。可愛らしくていろいろと教えたくなる、とか」
にやり、と柏葉さんが笑う。ぞわりとした。
……一体、なにを教えたいというのだろう。
「まぁ、好かれるのはいいことではあるのですがね。とはいえ陛下が男色に目覚めたら、それはそれで国が傾きますので、陛下を唆すのもほどほどにしてくださいね?」
笑顔が黒い。
「……そ、そうですね。というか、私は唆してなんていません!」
私は柏葉さんの目にはどう映っているのだろう。絶対害獣的な感じに映っている気がする。
「さ、どうぞ」
「なに餡ですか?」
「あなたが言っていた、柚を餡にしたものですよ」
「ふぉお! 柚餡!」
私はきらりと目を輝かせて、包子を手に取った。ぱくり、と包子を頬張ると、甘酸っぱい柚餡の味が口いっぱいに広がっていく。
「うんまぁ……」
やっぱり、甘いものはいつどんなときに食べても甘いからいい。
もうなんだっていいや。
「……なんとなく、陛下があなたに餌付けをする理由が分かった気がします」
「ふぇ?」
「ゆっくり食べなさい。誰も取りませんから」
ごっくん、と口の中を綺麗にしてから、私は柏葉さんを見る。柏葉さんは苦笑しつつ、卓に頬杖をついて私を眺めていた。
「柏葉さんは食べないんですか?」
「私は、あなたの幸せそうな顔でお腹いっぱいです」
「そんな馬鹿な。私の笑顔に柏葉さんの胃を膨らませる力はありませんよ」
言いながら、私は包子をもうひとつ手に取る。
「とにかく、これから忙しくなりますから、よく食べてよく働きなさい」
忙しくなる? なにかあるのだろうか。特別なにか行事があるとは聞いていないけれど。
「ふぁい」
私はとりあえず返事をして、包子を頬張る。
「あ、そうそう」
ふと、なにかを思い出したらしい柏葉さんが、私の耳元にそっと口を寄せる。
「陛下から伝言です。この仕事を予定より早く終わらせたら、ご褒美に暁明の食べたいものを国のどこからでも取り寄せてやる、とのことでしたよ」
「えっ!? 本当ですか!?」
「ええ」
「なんでも? いくらでも?」
「ええ」
「柏葉さん! 私、頑張ります!!」
とりあえず今のところ、陛下は私と暁明のことを糾弾するつもりはないみたいだ。もう少し、このお魚生活を満喫しよう。だって、ご褒美が待っている。
しかし、私たちの宮廷ものがたりは、そうのほほんとしたものとはならないらしい。
それからひとつ、季節が流れた頃。私と暁明は、思いもよらない事態に巻き込まれたのである。
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