第8話・秋、1


 ――それからというもの。


 私の環境は、また少し変わった。暁明シァミン宛の手紙を書き、知り合いの女官を介して事の顛末を伝えると、私はすぐに引越しをした。陛下に正体がばれてからというもの、私と暁明は入れ替わっていない。

 

 陛下の考えていることは、よく分からない。脅しのつもりか、それともからかっているだけなのか。陛下付きの文官となってからというもの、陛下はこれみよがしに、私を女扱いしてくる。

 周囲の視線を感じるし、いつかばれるのではと、こちらは気が気ではない。けれど、陛下はそれをやめようとする気配はなく、むしろ楽しんでいるようだった。


「つまり、私はおもちゃなんですね……」


 とほほ。


 昼下がり、書院で調べ物をしていると、一人の武官を連れて陛下が現れた。


 陛下は、両手にたくさんの書簡を持っていた私を見て、

「よく働くな、暁明。疲れていないか? 重いだろう。持ってやるから、貸せ」などと、気遣ってきたのである。

 

「い、いえ、これくらい問題ありません。男ですので」

「そういうな、ほら」

 

 私は陛下から距離を取ろうと、一歩下がる。しかし、私の一歩と陛下の一歩はかなり違う。一瞬で距離を詰められる。

 

「なぜ逃げる?」


 近くには、同じ陛下付きの武官の柏葉ハクヨウさんや、その他大勢の官吏たちがいる。


「こんにちは、暁明シァミン

「あわわ……こ、こんにちは、柏葉ハクヨウさん」

「ここは遠慮せず、素直に陛下に甘えたらどうです?」

 

 挨拶しつつ、私にそんな助言したのは、新しい上司である柏葉さんだ。彫りが深い顔立ちの、大男だ。並ぶと自分が子供になったかのように思てしまうほど、彼はでかい。

 柏葉さんは言葉数は少ないものの、分からないことを聞けばちゃんと答えてくれるし、面倒見もいい。それになにより、私によくお菓子をくれる。文句なしのいい人である。

 

 柏葉さんに言われて一瞬迷うが、すぐに周囲の視線に気づく。その場に居合わせていた官吏たちは、怪訝な顔をして、窺うように私たちを覗き見ていた。


 ひそひそと囁き声が聞こえてくる。


「陛下とあの新人は、随分と仲がいいのだな」

「陛下は美しい者がお好きだからな」

「もしや、陛下には男色の気が……?」

「たしかに顔も手も小さくて可愛らしい男子ではあるが」


 まずい。陛下が男色を疑われるのはまずい。というか、私までそんな偏見の目で見られるのは嫌だ。それに、注目されたら、いつどこで正体がばれるか分からない。


「いえ! 大丈夫です! これくらい持てますから! だって男ですから!」

「まったく、そなたは本当に頑固だな」

 

 しかし、陛下は私のことなんかおかまいなしで。書簡をひったくると、さっさと執務室に戻っていく。

 

「あっ! ちょっと陛下ー!」

「男の割に非力なんだな」

「非力違いますー! それぐらい持てますー」

 

 もう本当に、なにがしたいのでしょうか、このお方は。


 陛下は椅子に腰を下ろすと、書簡をひとつ、手に取った。

 

「なにを調べているんだ? 手伝おう」

「結構です。私の仕事ですので」


 私は書簡を奪い返しながら、陛下を睨んだ。

 

「では、茶にしよう。ちょうど、献上品の中に桃があったな。なぁ、葉?」

「そうでしたね」

「えっ、桃」


 桃、と言われ、ついごくりと喉が鳴る。瑞々しくて、甘い果肉が脳内を侵食していく。

 あぁ、食べたい……。

 ふと、視線を感じ顔を上げると、陛下が私をにっこりとした顔で見つめていた。


「食べるだろ?」

「い、いけませんいけません! 仕事中ですから」

ヨウ

 

 陛下が目配せをする。

 すぐに「すぐにお持ちいたします」と、柏葉さんが答える。

 

「だ、だめですって」

「そうか。そなたはいらないのか。ならば私と葉だけでいただくことにしよう」

「がーん」

 

 そんなぁ……。桃。私の桃……。


 ほどなくして、柏葉さんが玻璃はりの器にたくさんの桃を入れてやってきた。爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。私は思わず身を乗り出して、宝石のように煌めく果実を見た。なんて美味しそうな桃だろうか。


 これ、絶対いいやつだ。


「……暁明。本当にいらないのか?」


 意地悪にも陛下は余裕の笑みを浮かべて、私に尋ねてくる。


「……う。い、いりません」

「そうか。残念だ」

 

 陛下の整った唇に、白い果肉が吸い込まれていく。歯を立てると、唇の隙間からたらりと果汁が溢れてくる。

 

 あぁあ。なんて美味しそうに食べるの。食べたい食べたい食べたい。

 見ているだけで、じゅるりと唾液が出てきてしまう。


「うん、良い桃だな」

「陛下、私もいただいてよろしいですか」

「食べろ」

「えっ、柏葉さんまで」

 

 ちゃっかり柏葉さんまで桃を食べ始めている。

 

「あぁ……」

 

 私が悩んでいる間にも、陛下と柏葉さんはぱくぱくと桃を食べている。器の底がどんどん見え始める。

 陛下がちらりと私を見た。


「美味いぞ?」

「う……!」

 

 陛下は、にやっと意地の悪い笑みを浮かべて私を見下ろした。

 

「あーもう!! 陛下たちばかりずるいですー!!」


 耐え切れず、私は陛下に飛びかかった。陛下の手の中の桃にかぶりつく。


「おぉっ?」


 一瞬、驚いた顔をした陛下が、その後満足そうに目を細める。しまった、と思うけれど、口の中に広がった爽やかな甘みに、私の理性は完全にどこかへ吹っ飛んでいる。

 陛下の膝の上に乗っていようが、陛下にあーんをされていようが、気にしない。だって、絶品の桃を食べるためだもの。

 

「ははっ……そなたは本当に食い意地がはっているのだな。良い。食べろ食べろ」


 すべての桃を食べ終える頃、私はようやく我に返った。

 

「……はかりましたね」

「餌に食らいついたのはそなたの方だ」

 

 もぎゅもぎゅと咀嚼しながら陛下を睨む。釣り上げられた魚の気分である。

 私はいそいそと陛下から離れた。


「美味かったか?」


 陛下はなんとも優しげな表情で私を見ている。私はといえば、条件反射とはいえ時の皇帝に飛びかかったのだ。居心地が悪いことこの上ない。


「まったく、暁明は本当に食べ物には目がありませんね」

 

 柏葉さんにも笑われてしまう。


「……すみません。官吏になるまで、ずっと具なし粥だったもので」

「葉。包子もあっただろう」

「すぐにお持ちしましょう」


 柏葉さんは、さっそくくりやへ向かう。


「え? ちょっと」

「そなたはここで、私と大人しくお留守番だ」

「私は子供ではありません!」

「子供より食いしん坊な気がするがな」

「なんですと!?」

「ははっ」


 まったくもう。

 ふう、と息を吐き、私は荒立った心を落ち着ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る